友だちはたくさん持った方がいい?
皆さん、おはようございます。
皆さんに問います・・・「友だちは何人いますか?」
小学生になる時、「1年生になったら……友だち百人できるかな?」というような歌を歌ったことがあるでしょう。
「朱に交われば赤くなる」とか「類は友を呼ぶ」と言われますが、学校では友だちはたくさん持った方がいいと教えることが多いと思います。
有名な「性悪説」を唱えた中国の荀子が、「蓬(よもぎ)も麻中に生ずれば、扶けずして直し」と述べています。
蓬という草は、たいてい土を這うように生えています。ところが、蓬も、まっすぐ上に伸びる麻の中に混じって生えると、それに影響されて、まっすぐに育つのだそうです。
友情とは?
ところで、ドイツの精神分析学者、エーリッヒ・フロムは、「人間の遺伝子には、『持つ能力(to have)』と『ある能力(to be)』という2つの能力が組み込まれている」と述べています。
「持つ」ということは、所有することであり、ある意味では支配することです。「友達を持つ」という表現がありますが、これは、友達を自分の都合のよい存在と考える姿勢であり、大変危険なことだと思います。そうではなくて、「共にある」関係であるべきでしょう。
一般に、私たちは、「持つ能力」ばかり重視し、「ある能力」を軽視しています。
お金を持つ、家を持つ、高い学歴を持つ……。「モノ」をたくさん持つことが幸せだという考えによって、間違った個人主義が蔓延し、人と人とのつながりが希薄になってきたのではないでしょうか。
友情とは、自分本位のものであっては長続きしません。共に喜び合い、助け合い、ただ共にあることで幸せと感じるものです。
「愛すること」の反対は?
学校という場は、一人で勉強するためにあるのではありません。集団で学ぶところに意義があります。原始時代、鋭い牙も爪も持たない人類が巨大なマンモスや猛獣を倒して生き残ったのは、集団の力を使う能力に優れていたからです。
ところで、「愛すること」の反対は、「愛憎」という言葉がありますから「憎むこと」だと考えられますが、実はそうではありません。
「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉もありますが、「愛する」ことも「憎む」ことも、相手に激しい感情を向けるという点では、同じ行為なのです。大脳生理学者にいわせると、「愛する」時に脳から出るインパルスと「憎むは時に出るインパルスは、同じ部位から出ているのだそうです。だから、「愛」は時として「憎しみ」に変わることもあるのです。「愛」の反対、それは「無関心」です。
子どもが学校から家に帰って、家族に今日あったことや聞いてほしいと思っていることを一生懸命話しているのに、お父さんもお母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、誰もまともに話を聞いてくれなかったら、どうでしょうか。こんなに悲しい思いをすることはないでしょう。誰かが話をしている時にまともに聞こうとしないのも、相手を無視しているのと全く同じ行為です。こういう無関心な状態では、集団は崩壊します。
マザー・テレサもこの世の最大の不幸は、無視されることだと述べています。最大の不幸を感じた時、私達は倒れるのです。一人暮らしの老人も同じことでしょう。
人に対して無関心な状態になった時、その関係は崩壊するのです。夫婦関係も親子関係も、先生と生徒との関係も、友達関係も、無関心である時、その関係を継続することは難しいでしょう。家族崩壊や学級崩壊は、全て、この無関心から起こると思います。
学校で行われる様々な学校行事には、個人のわがまま・勝手・気ままをおさえ、心を1つに合わせて臨まなければなりません。その経験を共有する中で、真の友情が芽生えるのです。
本当の友人とは・・・①
「落穂拾い」や「晩鐘」などの作品で有名なフランスの画家ミレーが駆け出しの頃の話です。ミレーとその家族は、貧しさのために飢えと寒さにふるえていました。そんな時、友人の画家ルソーが訪ねて来て、「おまえの絵を200フランで買いたいという男がいるのだが、売ってくれないか」と言いました。
勿論、絵を買いたいという男はルソー本人のことで、ミレーの苦しい生活を見かね、友に心苦しい思いをさせたくないと、ある男が買ったことにして、実はルソー自身が絵を買ったのでした。
ミレー「落穂拾い」
ミレーは後に画家として成功してから、この事実を知り、感激に涙を流したといいます。
友情とは、何かの報酬を期待することなしに、何かを与えることによって成り立つもののようです。
本当の友人とは・・・②
戦国時代の加賀藩祖、前田 利家は、気が短く、正義感の強い人でした。菅原道真の子孫でもありました。
前田 利家の家紋:加賀梅鉢
ある時、織田信長の身のまわりの雑事を行っていた拾阿弥(じゅうあみ)という同朋衆が利家の刀の笄を盗んだことから、利家は信長の目の前で拾阿弥を斬ち捨てました。そこで、信長の逆鱗に触れ、閉門を命ぜられます。
その時、利家は、こんなことを言ったそうです。
「俺が信長様に罰せれらると、今までの友人が3つに分かれた。
1つは、俺がこういう目にあって、いい気味だと嘲笑いに来る者。
1つは、信長様を恨んでいるのではないかと探りに来る者。
1つは、俺のことを心配してくれる者。
最後の本当の友は1人か2人であったが、不遇の時にこそ、本当の友情がわかるものだ。」と。
その最後の本当の友こそ、後に天下をとった豊臣 秀吉であったのです。
本当の友人とは・・・③
イソップ童話の中に、「熊と旅人」という話があります。
クマと旅人 【日本語/英語版】【電子書籍】[ イソップ寓話 ] 価格:204円 |
2人の男友達が一緒に旅をしていると、森の近くで大きな熊に出会いました。友達の一人は、夢中で木によじ登ってしまいました。けれど、もう一人は、木に登ることが出来ません。「助けてくれえ!」と叫んだにもかかわらず、木の上の男は「それどころではないよ。」と手をかしてくれませんでした。
そのうち、熊がやってきました。
木の下の男は倒れて死んだふりをしました。熊は死んだ人間を食べないと言われているからです。熊は倒れている男のそばに来て、くんくんと匂いを嗅いでいましたが、やがて、そのままどこかへ行ってしまいました。
「ああ、助かった。」と、死んだふりをしていた男が起き上がると、木の上の男が降りて来て、「熊が君の耳に何か言っていたようだけど、なんて言ったんだね?」と尋ねました。
そうすると、「ああ、それはね。『命が危ないような大変な時に助けてもくれないような者と、一緒に旅なんかしない方がいい。』って言ったんだよ。」と答えたということです。
これらの話からも、苦しい時や困った時に来てくれる友こそ、本当の友ということがいえるでしょう。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスも、
「友情は愛せられるよりは愛することに存す。」と述べています。
また、イギリスの諺にも、
「友のために苦しめば、その交わりは深くなる。」というのがあるそうです。
「友は友、我は我なり、されど仲良き」
これは、白樺派の小説家、「友情」などの著書で有名な武者小路 実篤の言葉です。
人は、親しくなればなるほど、その相手と一体感を求めがちです。しかし、それは、本当の人間愛ではありません。お互いに独自の人格を尊重し合い、相手にも独自の生き方を許す心があってはじめて、良い人間関係が成立するのです。
古来から、日本では、礼儀を重んじる風潮がありました、『親しき中にも礼儀あり』という言葉もありますが、これは人間関係にはある程度の距離が必要だと説いているのでしょう。
外山 滋比古の「親は何を教えるべきか」という本に、車に車間距離が必要なように、人間関係にも人間(じんかん)距離が必要だということが書かれています。
お互いによく知り合うようになってもよい人間関係を保つには、実は、相手と一体化したいという欲望に耐える苦しみを伴うのです。それに耐えるには、相手への信頼が必要だと思います。
「皆さん、おはようございます」授業では教えない“生き方”教育 スライドで語る全校朝礼のお話[本/雑誌] / 長井功/著 価格:1280円 |
「皆さん、おはようございます」授業では教えない“生き方”教育 スライドで語る全校朝礼のお話【電子書籍】[ 長井功 ] 価格:1000円 |