旅の理由
皆さん、おはようございます。
昔の修学旅行のイメージは、観光バスに揺られ、観光都市に1~2泊して名所や旧跡を見学。夜は枕投げなどして大騒ぎ(当然、叱られる!)。そして、翌日のバスの中では、ガイドさんの説明を子守歌代わりに居眠り…。それでも、見知らぬ土地を訪れた感動が残り、思い出は残っているというようなものでした。
しかし、家族旅行等の機会が多くなってから、修学旅行のイメージは大きく変容してきました。最近の修学旅行では、体験学習を取り入れる中学校も増えてきています。その目的は、教室で学べない歴史や地理の生きた学習をすること,さらに、普段出来ない学習ができることにあります。
山陽・九州新幹線TVCMソングになったコブクロの歌に、「何故、旅をするのだろう」と、旅そのものの理由を問う歌があります。
♪
何故、旅をするのだろう?
好きな街を選んで 暮らしているのに 言うほど 都会も 冷たくないのに…
どんな写真機でも写せない 済んだ色が まだ あの空にある
いつでも同じ温もりの中に 新しい自分を探しに行く 忘れてた答えを探しに行く
歴史を振り返ると、旅には、水や食物を求めたり、定住することのできる安全な場所を探したりする「生きるための旅」、権力者の命令や外部の力による「強制された旅」、除災招福を求めた信仰心によって始まった「信心の旅」などがありますが、ここでいう旅は、「自ら好んでする旅」のことです。
「旅色プラス」というサイトに、人が旅する理由10選があげられています。
美味しいものを食べたい!
絶景が見てみたい!
人と触れ合いたい!
傷心を癒したい!
やりたいことを見つけたい!
自分を見つめなおしたい!
知らない自分を見つけたい!
経験値を高めたい!
自信をつけたい!
いろんな価値観を知りたい!
他にも理由があるかもしれませんが、共通しているのは、「日常生活を離れて」ということだと思います。
次に、旅をして得られるメリットを8つあげたいと思います。
想像力が広がる。
交渉力が上がる。
行動力が高まる。
計画力が身につく。
「生きている」ことに感謝できる。
自分と向き合う時間を持てる。
ニュースが自分ごとに感じられる。
帰る場所があることにありがたみを感じられる。
旅先では、いろんなことが起こります。
新しいものとの出会い
予想外の事態
珍しい目で見られる。
人は、旅をすることで、価値観が変わります。
私がこれまでの人生経験で最も影響の受けた旅は、文部科学省からの派遣でニュージーランドに教育視察に行ったことです。ニュージーランドのパンフレットに、「人生観の変わる国」という宣伝文句が書いてありましたが、私は、この旅で、「教育観」が変わりました。
勿論、一生の伴侶を決めた北海道スキーツアーや新婚旅行(アメリカ西海岸~メキシコ~ハワイ),バイクでのツーリング(四国、北海道、紀伊半島、九州、信州),学生時代のスキー武者修行,家族との海外旅行(サイパン、オーストラリア、台湾),仕事で行った旅(沖縄、韓国)など、いずれの旅も思い出を残してくれたとともに、自分の価値観を変えることがありました。
旅につきもの、それは「歌」
旅の歌で一番好きなのは、「岬めぐり」(作詞:山上路夫、作曲:山本コウタロー)です。「走れコウタロー」をヒットさせた、山本コウタローとウィークエンドの歌で、1974年のヒット曲です。
あなたがいつか 話してくれた
岬を僕は 訪ねて来た
二人で行くと 約束したが
今ではそれも かなわないこと
岬めぐりの バスは走る
窓に広がる 青い海よ
悲しみ深く 胸に沈めたら
この旅終えて 街に帰ろう
幸せそうな 人々たちと
岬をまわる 一人で僕は
くだける波の あの激しさで
あなたをもっと 愛したかった
岬めぐりの バスは走る
僕はどうして 生きていこう
悲しみ深く 胸に沈めたら
この旅終えて 街に帰ろう
岬めぐりの バスは走る
窓に広がる 青い海よ
悲しみ深く 胸に沈めたら
この旅終えて 街に帰ろう
イントロのリコーダーがほんわかしているし、「岬めぐりのバスは走る」のメロディも明るいため、ぼんやり聞き流していたら、のんびりしたバス旅行の歌かと思える歌ですが、歌詞をよくよく聞くと、傷心旅行の歌です。
ちなみに、作詞の山上路夫は、1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作の作詞を手掛けた作詞家で、ざっと上げるだけでも、「翼をください」(赤い鳥),「ひなげしの花」(アグネス・チャン),「二人でお酒を」(梓みちよ),「虹をわたって」(天地真理),「お世話になりました」(井上順),「純愛」(片平なぎさ),「青春物語」(狩人),「学生街の喫茶店」(GARO),「あなたに夢中」(キャンディーズ),「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子),「世界は二人のために」(佐良直美),「空港」(テレサ・テン),「私鉄沿線」(野口五郎),「さよならは突然に」(ザ・ピーナッツ),「愛の園」(布施明),「夜明けのスキャット」(由紀さおり)などがあり、TV主題歌では、「ああ人生に涙あり」(「水戸黄門」主題歌:里見浩太郎・横内正)), 「10億光年の愛」(「サイボーグ009 超銀河伝説」主題歌:町田義人)などがあり、CMソングでは、「バーモントカレーの歌」なんかも有名です。
修学旅行への私の熱き思い・・・
さて、私自身の中学3年生の時の修学旅行は九州でした。当時のT中学校は1学年に16クラスもあったので、8クラスずつ、九州の東回りと西回りの2コースに分かれ、水前寺公園,阿蘇,別府を観光しました。行きは東神戸から船泊で別府へ、九州で2泊し、新幹線で帰ってきました。つまり、3泊の旅だったのです。往路のフェリーは生徒全員699名の貸し切りでした。二等船客で雑魚寝で寝たので、殆どの者は一睡もせず(出来ず?)、一晩中ドンちゃん騒ぎをしてしまいました。その後、体調不良で途中帰宅する生徒や行事の不参加生徒が続出しました。
船泊するというのは、それまでは前例のないことだったのだそうですが、私たちの修学旅行以来、それからは二度と船中泊の3泊旅行が実施されることはありませんでした。私たちは、大きな汚点を残してしまったのです。
それから、私が教師になって、K中学校に赴任し、修学旅行を計画するような立場になってからのことです。
長崎県の壱岐に修学旅行を計画しました。あれこれと調べていると、壱岐でゆっくりするには帰りを船泊にしたらいいことに気づきました。早速、教育委員会に問い合わせたところ、「法的には3泊の修学旅行は可能であるが、神戸では、昔、3泊した修学旅行で大変しんどい目にあった学校があって、慣例的に3泊の修学旅行は認めていない」との返事でした。「それは私たちのことですよ」とは言えず、本当に恥ずかしい思いをしました。
しかし、その時は、阪神・淡路大震災のあった平成7年5月の修学旅行であったこともあって、なんとか認めてもらい、帰りに船中泊を入れた3泊4日の修学旅行を実施したのでした。
この修学旅行に向けて、1年生の時から壱岐の石田中学校との学校交流をしていました。お互いの学校行事をビデオレターにして交換をし、この修学旅行のメイン行事は交流会でした。
壱岐の島に到着した時、
「ようこそ壱岐へ。皆さん、お待ちしていました!」
と大きな横断幕を掲げて、島あげての歓迎を受けました。思わず涙が出ました。
壱岐では各クラス分宿で2泊したのですが、民宿の方からも本当に温かいおもてなしを受けました。
石田中学校との交流会。石田中学校は3クラスの学年でしたが、合唱に圧倒され、腹話術を披露してくれたり、プレゼントのレベルの高さにびっくりさせられたりしました。グループ交流会で「毎日12時まで勉強している。」「昨日は1時まで勉強していた」という生徒たちの話にも驚かされました。その当時、壱岐には県立高校が1校しかなく、成績の振るわない生徒は長崎県本土の私立高校に行かなければならなかったのです。片道2時間のフェリーで通うわけにはいかず、私立高校に行くとなると親元離れての下宿となります。ですから、地元の県立高校に行くために、生徒たちは猛勉強していたのでした。K中学校の生徒たちはカルチャーショックを受け、帰ってきてから本当によく勉強するようになりました。
最後に島を離れる時、石田中学校の生徒たちがフェリー乗り場まで見送りに来てくれて、「きみに会えて」という歌を歌ってくれました。そして、何度も何度も、“See you again.”と言ってくれるのでした。
♪
きみに会えてよかったね この広い地球の中で
めぐり会ったこの喜びを大切にしたい
光れ あの雲のように 風に瞳輝かせ
未来へと翼をひろげ 飛びたて 友よ
See you again しあわせに
See you again さようなら
See you again 忘れずに また会う日まで
帰校してから、この「きみに会えて」の楽譜を取り寄せ、学年の歌に編曲し直し、文化祭や卒業式でも歌いました。今でも、この学年の生徒たちが集まると、「きみに会えて」を歌い続けています。
「長崎は今日も雨だった?」
その次に、なんと私は、自分の母校のT中学校に赴任することになり、再び、修学旅行を企画することになりました。自分の学年の保護者に、あの船内でどんちゃん騒ぎの汚点を残した同級生たちが30人近くいました。
私は、再び、「〇〇前のT中学校の汚点を晴らす!」と言って、船中泊を入れた3泊4日の修学旅行の計画を立てました。同級生の保護者たちはうなづいて理解してくれていましたが、生徒や他の先生たちにとっては、何のことかわからず、とにかく失敗は許されない修学旅行だということで、緊張感をもって臨んでくれました。
行先は、再び、長崎を選びました。しかし、K中学校の時に行った壱岐ではなく、松浦市の志佐中学校と3年間の学校交流を行い、民泊を実施しました。
その当時、修学旅行実行委員になってくれた生徒たちは、卒業後10年以上もお互いに交流を続けています。隔年ごとに、長崎と神戸で同窓会をしているそうです。
その修学旅行が成功裡に終わったおかげで、その後も益々、私の修学旅行計画&実践は、熱を帯びていくことになりました。
「修学旅行」 木村 芳子
まちに待った修学旅行が目前に迫りました。旅費も母が内職して工面してくれましたし、服も靴もとり出し、持物の用意もすっかり整えて、嬉しさにひたっていました。ところが、前日になって、私の気持ちは喜びから悲しみへと急に変わったのです。
いつものように私は、学校で楽しく旅行のことを話し合っていました。
「私ね、お父さんから素晴らしい旅行カバンを買ってもらったの」「そう、どんな色?」「明るい緑色よ、二千百円だって」「へえっ、私は赤いのよ」「私は、今日買ってもらうんだけど」「木村さんのカバンはどんなの?」
私は返事ができませんでした。私の旅行カバン、それは数年前に亡くなった父が、残していった古ぼけた、黒くてところどころ破れている男物のカバンでした。私はその時まで、カバンのことは少しも気にかけていませんでした。私は目の前が真暗になったような気がしました。
その晩、私は母にねだりました。うるさいほど必死になって新しいカバンを買ってくれとせがんだのです。母は「お金が無いのよ、辛抱しなさい。」の一点ばりでした。私は母を恨みました。「たった一人の娘が、はれの修学旅行に行くのに、お母さんのバカバカ・・・」。そう叫んで、私は寝床へ飛び込んで蒲団を頭からかぶりました。「ああ、お金持の子に生まれたい。」涙がとめどもなく流れました。
ついに旅行の日が来ました。あれほど楽しみにしていた修学旅行、それが古ぼけたカバンのために、私には何とのろわしいものに感じられたことでしょう。私は母に別れのあいさつもせずに重い足を引きずりながら駅へ向かいました。みんなの視線が私のカバンに集まっているような気がして、私はいてもたってもいられないような気持ちでした。私は友達が話しかけてきても、うわの空の返事をしながら、みんなのカバンを眺め回していました。どれもこれも立派な新しいカバンばかりです。赤や黄色や緑や茶や、まるで花園のようです。それにくらべて、私のカバンがどんなにみすぼらしく見えたことでしょう。
「ああ、いっそのこと、何も持たないで来た方が・・・」と思いました。
「ピーッ」と笛がなりました。私は重苦しい気持で車中の人となりました。みんなは楽しそうに親たちと別れの挨拶を交わしています。私の母は来ませんでした。いや来ていたのかもしれません。私は、母が見えなければいいのにと思いました。むしろ、見たくなかったのです。列車が動き出すと、早速みんな楽しそうにおしゃべりを始めました。私はカバンをみんなに見えないようにして黙って座っていました。こんな修学旅行を何年も前から楽しみに待っていた自分が馬鹿らしく思われました。
「木村さん、お菓子食べようよ。」山口さんの明るい声に私はハッとわれにかえりました。私は欲しくありませんでしたが、食べないとよけい変に思われるので仕方なくカバンをあけてお菓子を取り出しました。
すると、カバンの中に封筒が一枚入っています。私はいぶかりながら封を切って中に入っている一枚の便箋をとり出しました。
「芳子さん、あなたにはお母さんは心からすまなく思っています。あなたにどんなにか、新しいカバンを買ってあげたかったことでしょう。でも、どうにもならなかったのです。お母さんにはあなたの気持がよくわかります。だから、心からお詫びします。あなたがつらいだろうと思うので、駅へは見送りません。家の窓から汽車が通るのを見送りたいと思います。同封の二百円は小遣いの足しにしてください。お母さんにはこれだけが精一杯です。お母さんもあなた以上に悲しいのです。けれど、がまんします。あなたもがまんしてください。元気で帰るのを待っています。」
私は急に涙がこみあげてきました。封筒の中には百円札が二枚入っていました。私は大声をあげて泣きたくなりました。
「お母さん、いいのよ、私こそごめんなさい。わがままばかり言って。」
今までのつらさも悲しさもふっ飛んでしまいました。何というありがたい母の心、何という深い母の愛情でしょう。
「お母さん、芳子は古ぼけたカバンで充分です。このカバンの中には何よりも尊いお母さんの愛情が入っているのですもの。私は堂々とこのカバンを振って歩きます。」 私は心の底まで明るくなりました。私には古ぼけたカバンがどんなに立派に見えたことでしょう。
(この作文は昭和の時代、和歌山県の中学生の書いたものです。)
「命どう宝」沖縄へ
6月23日は沖縄県の小中学校は一斉休校の日で、沖縄終戦記念日・沖縄慰霊の日でもあります。是非、この日の意味を、子どもたちに語り続けたいと思っています。
以前、NHKで放映された大河ドラマ「琉球の風」の一場面で、一命をかけても琉球の誇りを守ろうとする一人の司官に、「命あっての琉球再興を」と思い止まらせようとする主人公が、「命どう宝」という言葉を発していました。
「命どう宝」は『ぬちどう たから』と読み、沖縄では知らない人はいないそうです。この意味は『生命こそ、宝である。』というものです。
沖縄は、過去の歴史において、幾度となく、他民族に支配されてきました。沖縄の歌に悲しい調べが多いのもうなづけるでしょう。しかし、沖繩を旅すると、人々の思いやりや優しさを身に染みて感じます。その答えが、「琉球の風」の中でも語られていました。
「我々は何回も国を滅ぼされ、先祖も多く殺された。じゃが、わしらには、人が殺せん」
沖縄というところは、訪れるだけで、戦争や平和について考えざると得ません。私は、一番の平和学習になると考えていました。
しかし、沖縄に行くには、飛行機を使わないといけません。なんとか沖縄に生徒たちを連れて行きたいと何年間も思っていたところ、ある年、教育委員会から飛行機利用の許可が出ました。
早速、私は一番に沖縄への修学旅行の計画を立て、生徒たちを連れて行きました。
当時、沖縄は「日本で一番荒れる成人式」ということで、ニュースにあがっていました。沖縄の中学校も荒れているということで、K中学校の時のように、現地の中学校との交流はできませんでしたが、民泊をするなどして、沖縄の匂いを感じれる修学旅行を計画しました。その沖縄で最も印象に残っている歌は、唱曲「ひめゆりの塔」でした。
合唱曲「ひめゆりの塔」の思い出
沖縄戦で看護要員として戦場に動員され亡くなっていったひめゆり学徒隊のことを歌った「ひめゆりの塔」(作詞:山本和夫、作曲:岩河三郎)、これまで20クラスを担任した中で、5クラスでこの歌を合唱コンクールの曲に選び、生徒たちとともに歌ってきました。
最初に歌ったのは、初任校のO中学校での5年目の合唱コンクールで、3年生のクラスが「ひめゆりの塔」を自由曲に選びました。「『ひめゆりの塔』を歌い切るぞ!」・・・沖縄戦のことを学びながら、学級通信をシリーズで発行し、取り組みました。
赤いハイビスカスの花に囲まれ、屋上のシーサーが謎を投げ掛ける。
結果は優良賞、2位でした。当時、3年生は3クラスしかなかったのですが、どのクラスも〇〇先生のご指導で高レベルの合唱を披露し、甲乙つけがたい状態でした。しかし、結果を聞いて、私のクラスの生徒たちは、全員が「悔しい」と言って泣くのです。教室に戻ってからも、涙、涙で、その日のホームルームはできませんでした。
屋上のシーサーよ。日本のスフィンクスよ。
人間は、なぜ、幸せの証人として生きたいのに・・・。解けぬ永久の謎を、君は投げかかる。
次に勤めたK中学校では、音楽科の●●先生の意向で、合唱コンクールにはポップ系の軽いノリの感じの曲ばかりが指導されていました。当然、合唱コンクールのレベルは低く、結果を聞いて涙する生徒なんて一人もいませんでした。
世を火に次ぐ激戦だった。痛ましい、痛ましい沖縄戦。天は揺らいだ。大地は裂けた。
その底で、乙女たちは、いまわの絶叫を この世に残して、自らの命を絶った。
1年かけて音楽科の●●先生と▲▲先生を説得し、翌年の合唱コンクールで、私のクラスは「ひめゆりの塔」を歌いました。この年は文化ホールを借り切り、全校生で合唱コンクールを実施したのですが、2年生の私のクラスが圧倒的な評価を得て優勝しました。
しかし、3年生をさしおいて2年生のクラスが優勝したということが反省にあがり、その翌年の合唱コンクールは、なんと実施しないということになってしまったのです。
なぜ,なぜか?
そこにスフィンクスの謎の鍵穴が秘められているというのか。
その次の年、やはり合唱コンクールは学級経営においても必要な行事だということで復活しましたが、学年単位で実施し、順位をつけないということで開催しました。しかも、「戦争をテーマにした曲は雰囲気が重くなる」という理由で、音楽科の▲▲先生の選んだポップ系の曲ばかりで実施されました。当然、感動の涙なんて1滴もない合唱コンクールでした。
可憐な乙女たちは、悲しみの証人となって、
ひめゆりの塔の中に、今も生きている。
3校目のT中学校では、「ひめゆりの塔」を合唱コンクールで3回歌い、2回優勝。最後のクラスでは優勝できませんでしたが、歌った生徒たちも聞いていた生徒や保護者、先生たちも感動で涙を流すコンクールになりました。この時の合唱コンクールでは、生徒採点を×1倍、学年副担任の先生の採点を×2倍、音楽科の■■先生の採点を×10倍という採点方式で、生徒や音楽科以外の先生の合計点では優勝していたのに、音楽科の■■先生の採点だけで逆転したというものでした。
乙女たちのあの日の絶叫は、この世の悲劇の終りではなかったか。
ああ、悲劇とは、永久に続けられるものであろうか。
合唱コンクールで、クラスに順位をつけることが目的ではないでしょう。順位をつけるのは、競争によって生徒たちがより高いレベルを目指すようにするための一手段です。また、音楽の素人が評価するのと、プロの音楽科が評価するのが違うこともよくある話なので、順位をつけることに、さほど価値があるわけではないと思います。しかしながら、順位をつけるかつけないかなどということに関係なく、感動のない音楽コンクールなんてのは、全くやる価値がないと思います。
五色に光る、珊瑚の海を後ろして、屋上のシーサーが人間を探している。
無限の謎を投げる人間を探している。
「東洋のガラパゴス」奄美大島へ
さて、奄美大島には、田中一村記念美術館があります。
田中氏は、50歳にして奄美大島への移住を決意したそうです。奄美大島に移住してからの田中氏は、大島紬の染色工として働きながら、本土で展示会を行うため、絵を描き続けます。しかし、その道半ば、奄美大島の自宅で夕食の準備中に亡くなります。69歳でした。
この田中氏の絵を実際に生徒たちに見せてあげたいという思いから、A中学校では、奄美大島への修学旅行を計画しました。
1年生の時から、奄美大島の赤木名中学校というところと学校交流を行い、3年生で初顔合わせをしました。
学校交流会で、赤木名中学校の生徒たちから奄美の文化をたくさん教えてもらいました。そして、中 孝介の「花」という曲を歌ってくれました。薩摩酒造の芋焼酎「さつま白波」の2007年CM曲として使用されていましたが、本当にいい曲でした。
「花」
もしもあなたが 雨に濡れ 言い訳さえも できないほどに 何かに深く 傷付いたなら
せめて私は 手を結び 風に綻(ほころ)ぶ 花になりたい
もしもあなたの 夢破れ 行き先のない 日々は暮れゆき 信じることさえできなくなれば
せめて私が 声にして 明日に揺蕩(たゆた)う 歌をうたおう
花のように 花のように ただそこに咲くだけで 美しくあれ
人はみな 人はみな 大地を強く踏みしめて それぞれの花 心に宿す
例えこの身が 果てるとも 戦(そよ)ぐ島風 願いに染まれ
花のように 花のように ただ風に揺れるだけの この生命
人と人 また 人と人 紡(つむ)ぐ時代に身をまかせ それぞれの実が 撓(たわ)わなればと
花のように 花のように ただそこに咲くだけで 美しくあれ
人は今 人は今 大地を強く踏みしめて それぞれの花 心に宿す
帰校後、この歌を学年の合唱曲として(猛)練習をし、校内の文化祭や市内の連合音楽会に参加して歌い続けました。
その後、新型コロナの蔓延などで、A中学校の生徒たちと出会うことはなくなってしまいましたが、きっと、彼らは今でも、心の中でこの歌を歌い続けてくれているに違いないと思っています。
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あの新型コロナ蔓延時は、各学校で修学旅行が中止になり、その後、教師の働き方改革運動などもあって、今また、修学旅行廃止論が出るなど、修学旅行のあり方は大きく変わろうとしています。単に一泊ほど、テーマパークへ行って遊んでくればいいという修学旅行や事前計画や下見もないままに行われる修学旅行も出てきました。しかし、子どもたちにとっては、一生に1回の修学旅行なのです。人は旅をすることで価値観が変わります。旅の楽しさや大切さを学ぶことのできる修学旅行は、最も大切にしていきたい学校行事のひとつだと思います。
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