ボランティア活動
皆さん、おはようございます。
ボランティアとは、一体、何なのでしょうか。
1995(平成7)年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生しました。マグニチュード7.3で震源の深さは約14km、神戸市・芦屋市・西宮市と淡路島の北淡町で初めて震度7の激震を記録しました。自宅を失って避難した人は最大で23万人に達し、死者は震災が原因で亡くなった人を含めると6,000人を超えました。負傷者は約42,000人、倒壊家屋は約40万棟。被害総額は10兆円にものぼりました。この災害ではボランティアが活躍し、1995年は日本の「ボランティア元年」と言われました。また、2001(平成13)年は日本の提案により、「ボランティア国際年」となりました。
「ボランティア」という言葉は、ラテン語の “VOLUNTAS” に由来し、もともとは「自由意志で決意する」という意味です。初めて使われたのは、17世紀のヨーロッパで、「自警団」「志願兵」を意味していたと言われています。その後、現在のような意味になったのは、19世紀後半のことだそうです。
「ボランティア」の定義を一言でいえば、「人や社会のために行われる自発的で無償の活動」といえます。また、ボランティアにはそのほかにも「公益性」「先駆性」「継続性」が必要だということも言われています。
ボランティアの具体例
では、次に、何がボランティアになるのか、実例をあげてみましょう。
「このマンションでは月ごとに掃除当番が決められています。毎月1回、当番になった人は、玄関と階段を掃除します。もちろん無償です。」
⇒これはボランティアとは違います。マンションに住む人が決めた役割分担です。もし、マンションに住んでいるみんなで「最近、近くの公園が汚れているみたいなので、今度の日曜日、みんなできれいにしませんか? 行ける人は行きましょう。」と提案しあって、公園の掃除に出かけたとしたら、それはボランティアといえるでしょう。
「週1回、この地域に住む主婦が公民館に集まってコーラスをしています。」
⇒これはボランティアではなく、サークルです。しかし、この主婦たちが、老人施設や障害者の施設に行ってコーラスを通して聞いている人を元気づける活動をするとしたら、それはボランティアといえるでしょう。
「家庭教師で学生に勉強を教えています。」
⇒これは明らかにアルバイトです。しかし、日本語のわからない外国人に、教材費の実費ぐらいの受講料で日本語を教えているとしたら、それはボランティアに値するかもしれません。
「学校で先生に言われて、書き損じの葉書を集めた。後から聞いたら、国際協力に使われるんだって。」
⇒よくある話ですが、この時点ではまだボランティアとはいえないでしょう。これをきっかけに国際協力のことを勉強し、自分たちで書き損じ葉書を集めるようになったとしたら、それはボランティアです。
「昨日、友達が関わっている国際NGO( Non-governmental Organization:非政府組織)に遊びに行ったら、忙しそうに資料のコピーをやっていたので、1時間ぐらい手伝いながらおしゃべりした。」
⇒これは難しいですが、団体によってはそれもボランティアとして歓迎されるかもしれません。もし、この人がその後、時間を見つけては資料を作成しに行っているとしたら、その時は迷わずボランティアと胸を張れるでしょう。
ボランティア活動には必ず「相手」がいます。それは必ずしも人とは限りません。地域だったり、地球だったり、社会だったりすることもあります。
つまり、社会的に弱い立場・状況にいる人々を支援したり、よりよい地域・地球を目指して課題解決に取り組んだりする行動がボランティア活動です。
また、ボランティア活動が有償か無償かというのは、常に議論が分かれるところですが、最近は「活動の実費」を受け取ることは認められるようになってきました。
さらに、ボランティアというものは「義務」ではなく、自分の地域・地球・社会に対する「願い」「思い」「怒り」を行動に移す自発的な活動です。ですから、やり方や関わり方はひとつではありません。「願い」「思い」「怒り」は人それぞれですし、行動に移す方法も、ひとつではないのです。人の行動の自発性のあるなしを、他人が判断してボランティアであるかどうかを決めることは難しいし、あまり適切ではないかもしれません。本人がどう考えるかということが大切なのだと思います。
ただし、ボランティア活動は、「相手」がいる以上「責任」も伴います。思いつきでやったりやらなかったり、相手の状況を理解せずに押しつけるというのは、ボランティアの目指すものから外れてしまいます。
しかしながら、ボランティア活動というのは、自分の「思い」「願い」を行動に移すことですから、本来、楽しく、気持ちのいいものです。充実感や達成感も覚えられますし、自分が地域や地球にとってかけがえのない存在であることを実感することもできるでしょう。
ボランティア活動では、する方と受け入れる方が同じ気持ちでなければ成り立ちません。「やらせて頂いて、ありがとう。」「やって頂いてありがとう。」とお互いに感謝の気持ちが大切です。 「ボランティア」を特別なものと考えずに、普段の生活をちょっと広げてみる,ちょっと視点を変えてみる,ちょっと行動してみる,・・・それだけで「ボランティア活動」はできるのです。
慈悲行
さて、京都大学名誉教授の哲学者、西田 幾多郎は「善の研究」で、
「花が花の本性を現じたる時に最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂点に達するのである」
と述べています。すなわち、花は花らしくあるのが美しいように、人は人らしく生きるのが美しいというのです。
人らしく生きるというのは、「人」という文字が二本の棒が支え合ってできている字であるように、お互いのことを思いやって支え合う姿勢をもつということです。「人でなし」という言葉がありますが、これは、思いやりの心を失った状態をいいます。
弥勒菩薩像の微笑み顔をみて、感動しない人はいないでしょう。こだわりのない素晴らしい笑顔に魅せられる人も多いはずです。それは、あの顔に、人間の慈悲の表情が出ているからです。人は、慈悲行をしている時に輝くばかりの美しさを表します。私利私欲にかられず、本当のボランティアをしている人たちは、素晴らしい笑顔をしていますが、これも慈悲行をしているからです。
Giive & Give
ボランティアの体験記を読むと、ほとんど、「私の自由な時間を少しだけGiveすることで、大切なものをTakeした」という内容が書かれています。ギブ アンド テイクという考え方はビジネスの鉄則かもしれませんが、「あげるから、くださいね。」という考え方は、「くれるなら、あげますね。」という考え方にもつながらないでしょうか? 見返りを期待してやったところで、相手方も嬉しくないでしょう。
また、もし、活動した後に何もTakeすることがなかったら、そこには腹立たしさしか残らないではありませんか? 「あんなにしてやったのに、お礼もない。」「これだけ一生懸命したのに、何もしてくれない。」・・・「のに」という愚痴から感謝の気持ちは生まれません。
キリストの言葉には、こんな言葉があります。
自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。
罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。
罪人でさえ、それくらいの事はしている。
また、返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。
罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。
(新約聖書「ルカによる福音書」第6章32~35節)
人間関係においては、Give & Take や Take & Give ではなく、Give & Give こそが、大切なのではないでしょうか。
見返りを求めない、「ただ」が大事なのです。梵語という古いインドの言葉で「タダ」の「タ」は「施す」で、「ダ」は「宇宙」という意味があるそうです。つまり、「宇宙に施す」ことが「タダ」であり、相手を決めず、見返りを求めない、遣りっ放しの心の現れです。
まけない!
「国際ボランティアの寺」として知られる曹洞宗・徳本寺の25代目住職、早坂 文明氏は、神戸復興支援CD「そら」やカンボジア支援CD「カンボジア・ストーリー」の作詞をしています。
東日本大震災の後、「頑張ろう」という言葉は巷に溢れ、被災している方々は、ギリギリのところで精一杯やっていました。しかし、これ以上何をどう頑張ればいいのと思う方もいたでしょう。そこに普通のタオルよりちょっと短めで、青地に白抜きで「まけない!」と書かれた「まけない!タオル」が届きました。
奈良県の浄土真宗教恩寺の尼僧さんでシンガーソングライターのやなせななさんが、早坂 さんの詩に曲をつけています。
♪まけないぞ まけないぞ 首にも頭にも
まけないタオル 半端じゃないぞ
泥にまみれて 明日が見えなくなっても
まけないタオルが 拭ってくれる
ほら 笑顔と一緒に明日が来るのさ
まけないぞ まけないぞ 夕陽にまけない
紅い血潮が 流れている限り
「頑張る」は「我を張る」が語源だそうですが、それよりは「負けない」には「自分はこれ以上へこたれないぞ」という緩やかな力強さが感じられます。
ボランティア体験
ボランティア活動は個人の自発的・自主的な活動ですが、その活動の広がりによって、社会貢献や福祉活動等への関心が高まり、共に支え合い、交流する共生社会が形成されるとともに、活動者自身にとっても自己実現への欲求や社会参加意欲が充足されます。
このような体験は、ぜひ、若い頃からさせておくべきです。特に学生時代は、半ば強制であっても、ボランティア活動をしておくべきだと思っています。
最後に、中学2年生の夏休みに体験したボランティア活動で人生を大きく変えた教え子のМ子の作文を紹介しましょう。
「夏休みで得た体験」
私は、この夏休み、とても貴重な体験をしました。8月4日~6日にかけて、高齢者へのボランティア活動(ワークキャンプ)に参加したのです。この3日間、いろいろなことを学ぶことが出来ました。
(中略)
残念だったこともありました。それは、お話をしたお年寄り人の殆どが、「いつでも死にたい。いつ死んでもいい。」などと言っていたことでした。逆に嬉しかったことというのは、お年寄りの方や職員の方達に褒めて頂いたこと。「親切で、明るく、たのもしいね。」と言ってもらえて、この3日間やりがいがあってよかったなと思いました。 この3日間、ワークキャンプとして老人ホームに行くまで、私の夢は小学校の先生だったけれど、いろんなことを学んで、将来は福祉士になりたいと強く思いました。 これからも、福祉の行事には、張り切って参加したいと思いました。そして、将来、世界一明るく、親切な福祉士になれるといいなと思いました。
幸か不幸か、教え子のМ子は、私が中学3年間を担任した生徒でした。家は自営業で、1年生の頃は、「私は家業を継ぐから」と言って、ほとんど勉強もしませんでした。
何度かМ子を呼び、「家業を継ぐだけの人生ではダメだ。もっと大きな夢を持ちなさい」という話をしました。そうして、1年生に終わり頃に、「小学校の先生になりたい。」と言い出したのでした。とはいっても、たぶん、私に叱られないよう、表面をつくろうような気持ちで言っていただけだったと思います。
2年生になっても、学習意欲は乏しいままで、夏休みの生活が心配だったので、ほぼ無理矢理、ワークキャンプに参加させました。上記の「夏休みで得た体験」の作文は、本気で書いたのだと思います。夏休みが終わってから、М子は大変、真面目に勉強するようになり、ぐんぐん成績を伸ばしました。
そして、3年生でも担任となり、いよいよ進路を決めるという時に、事件が起こりました。将来、福祉士の道に進みたいというМ子と、家業を継がせたいという父親が、進路をめぐって対立してしまったのです。私はМ子を連れて家に行き、父親と勝負をしました。
父親の思いもよくわかりました。М子が単純な理由で福祉士の道を選んだのでないこともわかりました。真剣な話し合いができました。そして、М子は福祉士の道を選べるような進路を決定したのでした。
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