「性善説」か「性悪説」か?
皆さん、おはようございます。
いきなりですが、-孟子の「性善説」と荀子の「性悪説」、皆さんはどちらを支持されますか?
参考に・・・
性善説と性悪説の違いと同じところを解説します。
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ちなみに・・・「性悪説」の使い方や意味、例文や類義語を徹底解説!
性善説 (Optimism / Theory of Innate Goodness)
性善説は、人間は基本的に善良で倫理的な存在であるという信念です。
人々は善意をもち、他人を助け、協力し合う傾向があり、人々の悪行や腐敗は外部の環境や影響によるもので、本質的には人の性は善であるとされます。この視点は、人間性の高尚さや社会の発展に楽観的な見方を持つ立場を支持しています。
例えば、幼い子供が井戸に落ちそうになっているのを見た場合、私たちは驚きや同情を抱き、助けようとします。その行動の背後には、その子供の両親になりたいわけでも、村人や友人から称賛されたいわけでもありません。他人から非難されることを避けたいという動機もありません。単純に、他人を傷つけたり苦しめたりすることを忍ぶ心があるからだと、四書の一つである「孟子」の問答集の第三巻「公孫丑章句」、孟子とその弟子、公孫丑との対話の中に書かれています。
性悪説 (Pessimism / Theory of Original Sin):
性悪説は、人間は本質的に自己中心的で欲望に従う存在であるという考え方です。
人々は自己の利益を追求し、他人を搾取し、時には不正や暴力を行うことがあるとされます。この視点は、人間の欲望や悪の傾向を強調し、倫理的な行動を維持するために社会的規範や法律が必要であるという立場を支持しています。
人々の性質を見ると、利益を追求する傾向があり、そのために争いが生じて妥協が失われています。また、悪を行うことにも傾向があり、そのために不正な行動や忠義を欠く行為が生じています。さらに、耳目の欲望があり、快楽や感覚的な刺激を好む傾向もあります。
人の性に従い、人の感情に合わせると、必ず争いが生じ、秩序や正義が乱れ、乱暴な行動に陥るのだと、「荀子」第十七巻第二十三性悪篇に書かれています。
簡単に言えば、性善説は人間の本質的な善良さを強調し、性悪説は人間の本質的な自己中心性や欲望を強調しているのです。
したがって、性善説は、人の本性は善であり、人を信じるべきだという考え方であり、性悪説は、人の本性は悪であり、人は疑ってかかるべきだという考え方であるという解釈は、間違っています。
性善説は、「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」というものであり、性悪説は、「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」というものです。
つまり、どちらの見解でも、結局、「人は善行も悪行も行いうる」のであって、これは人を信じるかどうかとは関係のない話ですね。
「理性」と「欲望」
この世には100%完全なるいい人はいないのと同じで、100%悪い人もいないでしょう。
人の本性が善であるか、悪であるかという二者択一する考えは、いずれも極論であり、本来、人というものは、善の部分と悪の部分を両方備えており、成長する時も、善行も学ぶし、悪行もすると考えるのがよいと思います。
「性悪説」と「性善説」、全く意見が正反対の内容ですが、
孟子の「心」=理性(自発的統制力)
荀子の「心」=欲望(外圧的な力が必要)
のことだと考えれば、すべてつじつまが合うという人もいます。
人の心は欲望と理性とが何事につけてもいつもせめぎ合っており、うまくコントロールする心を養うことが求められているのでしょう。
教育者の立ち位置
ところで、性悪説を主張した荀子について学ぶと、彼は「人をみたら悪党と思え」ではなく、「善人、悪人を簡単に決めつけてはいけない,人間をひとつの物差しだけで評価してはいけない。」ということを強く主張しています。
そして、「冥冥の志なき者は、昭昭の明なし。惛惛の事なき者は、赫赫の功なし。」と説いて、人の見ていないところでの言動こそが大切だと述べています。
また、第22代推古天皇の摂政であった聖徳太子は、冠位十二階制度を定め、有名な17条憲法を作りましたが、その17条憲法の第2条には、「人最も悪なし、よく教うれば之に従う」とあり、人の性は善で、悪人でも教導できるとしています。
これらの思想こそ、実は教育者や親が自然体で行わなければならないことだと思います。
すなわち、子どもには「レッテルをはらない」姿勢で接し、大人自らは人の見ていないところで「徳を積む行為」ができるという姿勢が、いい教育がなされる土壌だと考えます。
徳を積む
日本には、古くから「因縁生起思想」というのがあります。あらゆるものは、原因によって生じ、たとえば、今世の運の良さは前世の徳であり、反対に今世の運の悪さは、前世の徳の報いがないからだと考えられています。したがって、今世で徳を積めば、来世ではその功徳を受けるというわけです。
「徳」というのは、ラテン語では“Virtus”といいます。語源は“Vir”すなわち男という意味で、ギリシア・ローマ時代、男の価値は、自分の命よりも価値あるものに命を捧げる勇気をもつことで、そういう事の出来る者こそが尊敬される人間であり、その性質を徳といったのです。
つまり、「徳」とは、自分の命に代えてでも、他の人のことを思い、他の人のために行う、利他の行為をいうのです。
子育て中の母親の姿は、まさに徳を積んでいる最中で、人間の最も美しい姿だという人もいます。
他の人の幸せを願って行う業は、やがて自らに業報として返ってくるでしょう。
しかし、我が子ならいざしらず、昨今、自分のことよりも他人を思い、命に代えてでも尽くそうなどという人は殆どいません。何でも、自分が、自分が、と言い、他人のことは押しのけてでも、自分が前に出ることをよしとする風潮もあります。
「『俺が、俺が』」の我を捨てて、『おかげ、おかげ』の下で暮らせ。」と言われますが、自分さえよければという考えを捨て、あなたのおかげと思い、相手を立てる心をもって生きるのが理想でしょう。
せめて、人の為に尽くさないまでも、どんな生き方をするにせよ、人様に迷惑をかけない生き方ぐらいしたいと思います。
「一日一善」といわれますが、そういう人の見ていないところで徳を積む行為を、一日十個見つけてやりませんか。きっと、もっともっといい社会になると断言します。
徳を積む方法
心霊研究家であり、超能力者の深見 青山さんが、よき運を引き寄せるための人生観として、「徳を積む」ことが大切だと述べています。
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そして、「徳を積む」ための具体的な内容として、
①「学 問」・・・学ぶ姿勢を持つこと,
②「芸 術」・・・美しいものを心の底から求めること,
③「信仰心」・・・辛い立場にあっても苦労と思わないこと,
をあげておられます。
何も難しいことではありません。
仕事場では、
①仕事を学ぶ=「学問」,
②センスを高める=「芸術」,
③上司や同僚とうまくやる=「信仰心」,と考えられます。
また、家庭では、
①家計のやりくり=「学問」,
②料理を作る=「芸術」,
③夫や姑の小言を聞く=「信仰心」,と考えられますね。
このようにして「徳を積む」ことで、運(金運・家庭運・健康運)が高まっていくのです。また、多くの人々にも善の感化力で幸福にすることができます。つまり、「徳」は「得」になるわけですね。
また、東洋思想家で、昭和の時代、「宰相の知恵袋」と呼ばれてきた安岡 正篤氏も、蔭ながら善いことをする陰徳を積むことが、心身の健康をもたらすと述べています。
- 心中常に、喜神を含むこと。(常に喜ぶ心をもたなければいけない。)
- 絶えず、感謝の念を含むこと。
- 常に陰徳を積むこと。
安岡正篤「こころに書き写す言葉」より
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(参考)
「性善説」[本文]
孟子曰、「人皆有不忍人之心。
先王有
不忍人之心、斯有不忍人之政矣。
以不忍人之心、行不忍人之政、
治天下可運之掌上。
所以謂人皆有不忍人之心者、今、人乍見孺子将入於井、皆有惕惻隠之心。
非所以内交於孺子之父母也。
非所以要誉於郷党朋友也。
非悪其声而然也。
由是観之、
無惻隠之心、非人也。
無羞悪之心、非人也。
無辞譲之心、非人也。
無是非之心、非人也。
惻隠之心仁之端也。
羞悪之心、義之端也。
辞譲之心礼 之端也。
是非之心智之端也。
人之有是四端也、猶其有四体也。
有是四端、而自謂不能者、自賊者也。
謂其君不能者賊其君者也。
凡有四端於我者知皆拡而充之矣。
若火之始然、泉之始達。
苟能充之足以保四海苟不充之不足以事父母。
「性善説」[現代語訳]
孟先生が言うには「人は誰でも皆、他人の不幸を黙って見過ごすことのできない心がある。昔の聖王には、この思いやりの心があったから、そこで(自然に)思いやりのある政治が行なわれた。このように思いやりの心で、思いやりの政治を行なえば、天下を治めることは物を手のひらの上で転がすように簡単なことである。
人間は、皆思いやりの心があるというわけは(次のことで分かる)、今、ある人が、不意に幼児が井戸に落ちかかっているのを見たら、誰でもはっとしてかわいそうに思う心が起こる。それは、(幼児を助けて)幼児の父母と交際をしようとするためではない。村の人や友人たちから褒めてもらおうとする名誉心からではない。(子供を見殺しにしたという)悪い評判が立つのを嫌ってそうするのでもない。
以上のことから考えてみると、
憐れむ心のないものは人間ではない。
不善を恥じ憎む心のないものは人間ではない。
譲り合う心のないものは人間ではない。
正・不正を判断する心のないものは人間ではない。
人の不幸を憐れむ心は仁の芽生えである。
不善を恥じ憎む心は義の芽生えである。
へりくだって人に譲る心は礼の芽生えである。
正・不正を判断する心は智の芽生えである。
人間がこの四つの芽生えを持っているということは、ちょうど人間が両手両足の四体を備えていることと同じである。
この四つの芽生えを持っていながら、自分から仁・義・礼・智を行なうことができないという者は、自分で自分を傷つけ損なう者である。
自分の仕える君主は仁・義・礼・智を行なうことができないと考えるのは、自分の君主を傷つけ損なうことである。
だいたい四端が自分自身に備わっている者は、これを拡大し、充実(させて仁・義・礼・智を完全に)することが分かる。
(四端を拡充していくことは、)ちょうど火が一度燃え始めたり、泉の水が流れ始めたりする(のと同じように果てしなく広がっていく)ようなものである。
もし四端を拡充していくことができれば、広く天下を安んずることができ、もしこれを拡充しなければ、父母に孝行することさえも充分にできない。
「性悪説」[本文]
人之性悪、其善者偽也。
今、人之性、生而有好利焉。
順是、故争奪生、而辞譲亡焉。
生而有疾悪焉。
順是、故残賊生、而忠信亡焉。
生而有耳目之欲、有好声色焉。
順是、故淫乱生而礼儀文理亡焉。
然則従人之性、順人之情、必出於争奪、合於犯文乱理、而帰於暴。
故必将有師法之・礼儀之道、然後出於辞譲合於文理、而帰於治。
用此観之、然則人之性悪明矣。
其善者偽也。
性悪説」[現代語訳]
人の本性は悪であり、人間の善とは後天的に努力で作られた人為(な性質)である。
さて今、人間の本性には、生まれつき利益を好む性質がある。
この本性に従うために、他人との争いや奪い合いがおこって、互いの譲り合いがなくなってしまう。
生まれつき他人をねたみ憎む心がある。
この本性に従う、だから、他人を傷つけ損なう行動がおこって、他人への真心と信義がなくなってしまうのである。
また生まれつき耳や目を楽しませようとする欲望があり、美しい音楽や美女を好む性質がある。そして、この本性のままに行動するから、節度を失った行為がおこって、正しい規範と秩序がなくなるのである。
従って、人間の本性に従い性情のままに行動すれば、必ず奪い合いが始まって、次に社会秩序や規範が乱れ、ついには天下の大混乱に行き着くことになるのである。
だから、必ず、人間は師の教育・感化と礼の道による指導があった後、はじめて互いに譲り合い、次には社会規範に従うようになり、その結果、平和な社会に至るのである。
以上のことから考えると、人間の本性が悪であることは明白である。
人間の善とは後天的努力で作り上げた人為である。
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