「盲亀浮木の譬え」
皆さん、おはようございます。
今回は、仏説を述べます。
ある時、お釈迦様が弟子の阿難に、人間に生まれたことをどれくらい喜んでいるかと尋ね、阿難が答えに窮していると、お釈迦様は次のような譬え話をしたそうです。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その亀は、百年に一度、海面に顔を出す。広い海には一本の丸太が浮いている。その丸太の真ん中には、小さな穴がある。
丸太は、風に吹かれるまま、波に揺られるまま、西へ東へ、南へ北へと漂っている。
百年に一度浮かび上がるその目の見えない亀が、浮かび上がった拍子に、丸太の穴に、ひょいっと頭を入れることがあると思うか。
私たちが人間に生まれることは、その亀が、丸太棒の穴に首を入れることがあるよりも、難しいことなのだ。有り難いことなのだ。」
この話を「盲亀浮木の譬え」といいます。
志賀 直哉の「クマ」
ところで、志賀 直哉の小説に、『盲亀浮木』という作品があります。「軽石」「モラエス」「クマ」の三話でできています。その中の「クマ」という話は次のようなあらすじです。
志賀 直哉が奈良から東京に引っ越してしばらくのときのことです。
一緒に連れてきた飼い犬の「クマ」がいなくなってしまい、家族と一緒に探したのですが見つからず、心配していました。
しばらくたったある日、子供を連れて神田に出かけることになったのですが、出かけるときにトラブルがあって出るのが遅くなってしまいました。
高田馬場からバスに乗り外を見ていると、江戸川橋付近でクマらしき犬が走っているのを見かけました。すぐにバスを飛び降り、クマがいたところまで走ってクマを捕まえることができた、という話です。
[書籍] ちくま日本文学021 志賀直哉【10,000円以上送料無料】(チクマニホンブンガク021 シガナオヤ) 価格:968円 |
あとでクマと再会した確率を計算してみました。
クマがいなくなってから1週間後に見つかったということで、1週間を秒にすると604,800秒。この時間をバスに乗っていたときにふと外を見て、クマを見つけるのにかかった時間3秒で割ると206,600分の1の確率で起こったチャンスだったと言えます。
このことについて志賀 直哉は、
『妙な例かも知れないが、一円玉を二十万六千六百個置いて、それから、その一つを選りだせといわれても、それは全く不可能だろう。ところがそういう事が実際に起こったのだ。』
『仮りに偶然としてもただの偶然だけではなく、それに何かの力の加わったものである事は確かだと思うのだ。しかし、私の耄碌した頭では、その何かとは一体なんだろうと思うだけで、それ以上はもう考えられない』
と言っています。
この偶然起こった出来事に対して、「滅多にない」という意味で『盲亀浮木』という作品名にしたのだそうです。
クマを見つけることも滅多にないことですが、仏教では、私たちが人間に生まれてくることは、それ以上に滅多にない、有難いことだと教えられています。
では、どうしてそれほど人間に生まれてくることが有難いことと教えられるのでしょうか。
仏教では、それは、人間に生まれてきた目的があるからだと教えられています。
その生まれてきた目的について、仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)の中に説かれている譬話があります。
譬喩経が説く、「人間」とは何か(人間に生まれてきた目的)
ブッダ・釈迦牟尼の法話会場に、勝光王という一人の王様が参詣しました。初めて仏法を聞く勝光王に、ブッダはこう説かれたそうです。
王よ、それは今から幾億年という昔のことである。
ぼうぼうと草の生い茂った、果てしない無人の広野を、しかも木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れに、独りトボトボと歩いていく旅人があった。
ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、点々と散らばっている白い物を発見して立ち止まった。
一体何だろうと、1つの白い物を拾い上げて旅人は驚いた。なんとそれは、人間の白骨ではないか。
どうしてこんな所に、しかも多くの人間の白骨があるのだろうか、と不気味な不審を抱いて考え込んだ。
そんな旅人に、間もなく前方の闇の中から、異様なうなり声と足音が聞こえてきた。
闇を透かして見ると、彼方から飢えに狂った、見るからに獰猛な大虎が、こちら目掛けて、まっしぐらに突進してくるではないか。
旅人は、瞬時に白骨の散らばっている意味を知った。
自分と同じく、この広野を通った旅人たちが、あの虎に食われていったに違いない。
同時に旅人は自分もまた、同じ立場にいることを直感した。
驚き恐れた旅人は無我夢中で、今来た道を全速力で虎から逃げた。
しかし、所詮は虎に人間はかなわない。
やがて猛虎の吐く、恐ろしい鼻息を身近に感じて、もうだめだと旅人が思った時である。どう道を迷って走ってきたのか、道は断崖絶壁で行き詰まっていたのだ。
絶望に暮れた彼は、幸いにも断崖に生えていた木の元から1本の藤蔓が垂れ下がっているのを発見した。
旅人は、その藤蔓を伝ってズルズルズルーと下りたことは言うまでもない。
文字どおり、九死に一生を得た旅人が、ホッとするやいなや、せっかくの獲物を逃した猛虎は断崖に立ち、いかにも無念そうに、ほえ続けている。
「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。まずは一安心」と足下を見た時である。
旅人は思わず口の中で「あっ」と叫んだ。
底の知れない深海の怒濤が絶えず絶壁を洗っているではないか。
それだけではなかった。
波間から3匹の大きな龍が、真っ赤な口を開け、自分の落ちるのを待ち受けているのを見たからである。
旅人は、あまりの恐ろしさに、再び藤蔓を握り締め身震いした。
しかし、やがて旅人は空腹を感じて周囲に食を探して眺め回した。
その時である。
旅人は、今までのどんな時よりも、最も恐ろしい光景を見たのである。
藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、藤蔓を交互にかじりながら回っているではないか。
やがて確実に白か黒のネズミに、藤蔓は噛み切られることは必至である。
絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、歯はガタガタと震えて止まらない。
だがそれも長くは続かなかった。
それは、この藤蔓の元に巣を作っていたミツバチが、甘い5つの蜜の滴りを彼の口に落としたからである。
旅人は、たちまち現実の恐怖を忘れて、陶然とハチミツに心を奪われてしまったのである。
ブッダがここまで語られると、勝光王は驚いて、
「世尊、その話はもうおやめください」と叫びました。
「その旅人は何と愚かなのでしょう。それほど危ない所にいながら、なぜ5滴の蜜くらいで、その恐ろしさを忘れられるのでしょうか。旅人がこの先どうなるかと思うと、恐ろしくて聞いておれません。」
そして、ブッダ答えます。
「王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。実はこの旅人とは、そなたのことなのだ。」
「いや、そなた1人のことではない。この世の、すべての人間が、この愚かな旅人なのだ。」
さて、この例え話に、ロシアの文豪トルストイが、“これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない”と驚いたと伝えられています。
では、この例え話に登場したものは何を表しているのかを示しましょう。
「無人の広野」=人生の寂しさ
「旅人」=すべての人間
「人間の白骨」=他人の死
「飢えに狂った、見るからに獰猛な大虎」=自分の死
「1本の藤蔓」=寿命
「深海」=来世ゆく所
「3匹の大きな龍」=欲・怒り・愚痴
「白・黒のネズミ」=昼と夜
「5滴のハチミツ」=5つの楽しみ
・食べたい、飲みたいという飲食の楽しみ
・金や財産を追い求め、貯める楽しみ
・男女の愛欲の楽しみ
・誰からでも褒めてもらいたい、称賛される楽しみ
・楽して寝ておりたい楽しみ
まとめ
私たちが生きている今、絶対の幸福になれる法(真理)を説かれたのがブッダの教え、仏教です。
人生は有限です。当たり前のことなのですが、誰もが実は目を背けています。
限られた時間の価値に気づいた人は、本当の幸福になれる法を探し求めるでしょう。
その法を、よくよく聞かせていただくことこそが、人生を真の幸福に生きる道なのだとブッダは教示されているのです。
<参考>日本の仏教13宗56派
<参考>「楽しく楽に生きる ブッダの教え」
⇩
価格:1,320円 |
「皆さん、おはようございます」授業では教えない“生き方”教育 スライドで語る全校朝礼のお話 長井功/著 価格:1280円 |
「皆さん、おはようございます」授業では教えない“生き方”教育 スライドで語る全校朝礼のお話【電子書籍】[ 長井功 ] 価格:1000円 |