クリスマスツリーの日
皆さん、おはようございます。
12月に入って日本では早くも各地でライトアップやイルミネーションが飾られ、光が溢れています。しかし、キリスト教の一般的な習慣では、クリスマスツリーに点灯するのは、12月25日に祝われるキリスト誕生を準備する「待降節」が始まる日です。世界一有名なクリスマスツリーは、ニューヨークのロックフェラーセンターのものだと言われていますが、そのツリーに点灯されるのも、待降節の始まる12月7日からです。そう、12月7日は「クリスマスツリーの日」とされています。
ところで、英語の Christmas の語源は「キリストのミサ」(Christ + mas)にあるそうです。Xmasという表記は、ヘブライ語のメシア(油注がれた者)のギリシャ語訳である「キリスト」の原表記「Χριστο?」の頭文字を取ってXを「Christ」を表す略記としたものですが、正式な場では避けなければなりません。日本ではアポストロフィを付けて X’mas と表記される事が多いようですが、英語圏の国でこの表記が見られることは殆どなく、また本来アポストロフィは省略記号の為に「X’mas」と表すのは、アポストロフィの使い方としても誤りですから、Christmasの略記は Xmas あるいは X-mas と綴るのが正しいのです。
さて、「クリスマスツリー」はクリスマスのために飾り付けられた木です。クリスマスツリーには常緑の針葉樹が使われ、ヨーロッパではドイツトウヒですが、日本ではモミが主で、ほかエゾマツ・トドマツが用いられています。常緑樹が使われるのは、冬の間も緑を保つため、強い生命力の象徴とされたためです。厳しいヨーロッパの冬は一面真っ白な雪に覆われ、その中でも葉を失わない常緑樹は、永遠の命の象徴とされ、尊ばれました。ドイツ地方の信仰では、もみの木に花や食べ物を飾って、木に宿る小人がとどまって力を与えてくれるというものがありました。また、宗教改革で知れるマルチン・ルターが礼拝の帰りに常緑樹の間にきらめく星の美しさに心を打たれ、子供たちのために再現しようと家の中にもみの木を持ち込み、火のついたろうそくを飾ったことがイルミネーションの由来とも言われています。
クリスマスツリーをクリスマスに飾る風習が最初に記録されたのは1419年、ドイツのフライブルクでした。パン職人の信心会が聖霊救貧院にツリーを飾ったのを最初に、1600年代にはドイツ各地でも記録が残されています。ベルリンには1800年頃にツリーが伝わっています。また、イギリスへはビクトリア女王を通じて伝わっています。さらに、アメリカ合衆国では、ドイツ移民によって1746年に飾られた記録が残っています。
クリスマスを祝わない立場の人に対して「メリー・クリスマス」の代わりに「Happy Holidays!」の挨拶を用いる場合があります。1990年代後半から、公的な空間に飾られたクリスマスツリーを「ホリデー・ツリー」と呼びかえるケースが出てきましたが、最近は批判を受けて、元の呼称に戻されています。
それから、サンタクロースは、4世紀頃の東ローマ帝国小アジアの司教、キリスト教の教父聖ニコラウスの伝説を起源とします。「三人の娘を結婚させるお金のない父親の嘆きをたまたま聞いたニコラウスは、気の毒に思って、夜になってからその家に金塊(財布の説もある)を三つ投げ込んだところ、それが靴下の中に入った」という逸話が残されています。靴下の中にプレゼントを入れる風習はこの伝説によるものだそうです。
クリスマスの意義や歴史も子どもたちに教えてあげましょう。
サンタクロースはいるの?
「サンタクロースはいるのか?」誰もが一度は疑問に思うことでしょう。アメリカに住む、バージニアという8歳の女の子もそうでした。彼女は行動に移します。
これは実話です。
きしゃさま あたしは、八つです。
あたしの友だちに、「サンタクロースなんていないんだ。」っていっている子がいます。
パパにきいてみたら、「サンしんぶんに、といあわせてごらん。しんぶんしゃで、サンタクロースがいるというなら、そりゃもう、たしかにいるんだろうよ。」と、いいました。ですから、おねがいです。 おしえてください。
サンタクロースって、ほんとうに、いるんでしょうか?
バージニア=オハンロン ニューヨーク市西九五丁目一一五番地
バージニア、おこたえします。
サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友だちは、まちがっています。
きっと、その子の心には、いまはやりの、なんでもうたがってかかる、うたぐりやこんじょうと いうものがしみこんでいるのでしょう。
うたぐりやは、目にみえるものしか信じません。うたぐりやは、心のせまい人たちです。
心がせまいために、よくわからないことが、たくさん あるのです。それなのに、じぶんのわからないことは、みんなうそだときめているのです。
けれども、人間が頭で考えられることなんて、おとなのばあいでも、子どものばあいでも、もともとたいそうかぎられているものなんですよ。
わたしたちのすんでいる、このかぎりなくひろい宇宙では、人間のちえは、一ぴきの虫のように、そう、それこそ、ありのようにちいさいのです。
そのひろく、またふかい世界をおしはかるには、世の中のことすべてをりかいし、すべてをしることのできるような、大きな、ふかいちえがひつようなのです。
そうです。バージニア。サンタクロースがいるというのは、けっしてうそではありません。この世の中に、愛や、人へのおもいやりや、まごころがあるのとおなじように、サンタクロースもたしかにいるのです。あなたにも、わかっているでしょう。世界にみちあふれている愛やまごころこそ、あなたのまいにちの生活を、うつくしく、たのしくしているものなのだということを。
もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなにくらく、さびしいことでしょう!
あなたのようにかわいらしい子どものいない世界がかんがえられないのとおなじように、サンタクロースのいない世界なんて、想像もできません。
サンタクロースがいなければ、人生のくるしみをやわらげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスも、なくなってしまうでしょうし、わたしたち人間のあじわうよろこびは、ただ 目にみえるもの、手でさわるもの、かんじるものだけになってしまうでしょう。
また、子どもじだいに世界にみちあふれている光も、きえてしまうことでしょう。
サンタクロースがいない、ですって! サンタクロースが信じられないというのは、妖精が信じられないのとおなじです。
ためしに、クリスマス・イブに、パパにたのんでたんていをやとって、ニューヨークじゅうの えんとつをみはってもらったらどうでしょうか?
ひょっとすると、サンタクロースを、つかまえることができるかもしれませんよ。
しかし、たとい、えんとつからおりてくるサンタクロースのすがたがみえないとしても、それがなんのしょうこになるのです?
サンタクロースをみた人は、いません。けれども、それは、サンタクロースがいないというしょうめいにはならないのです。この世界でいちばんたしかなこと、それは、子どもの目にも、おとなの目にも、みえないものなのですから。
バージニア、あなたは、妖精がしばふでおどっているのを、みたことがありますか?もちろん、ないでしょう。だからといって、妖精なんて、ありもしないでたらめだなんてことにはなりません。この世の中にあるみえないもの、みることができないものが、なにからなにまで、人があたまのなかでつくりだし、そうぞうしたものだなどということは、けっしてないのです。
あかちゃんのがらがらをぶんかいして、どうして音がでるのか、なかのしくみをしらべることはできます。
けれども、目にみえない世界をおおいかくしているまくは、どんな力のつよ い人にも、いいえ、世界じゅうの力もちがよってたかっても、ひきさくことはできません。ただ、信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンをいっときひきのけて、まくのむこうの、たとえようもなくうつくしく、かがやかしいものを、みせてくれるのです。
そのようにうつくしく、かがやかしいもの、それは、人間のつくったでたらめでしょうか?
いいえ、バージニア、それほどたしかな、それほどかわらないものは、この世には、ほかにないのですよ。
サンタクロースがいない、ですって?
とんでもない! うれしいことに、サンタクロースはちゃんといます。それどころか、いつまでもしなないでしょう。
一千年のちまでも、百万年のちまでも、サンタクロースは、子どもたちの心を、いまとかわらず、よろこばせてくれることでしょう。
(フランシス=P=チャーチ)
<1898年9月21日 ニューヨーク・サン新聞「社説」より>
原文も紹介しておきましょう。
Yes, VIRGINIA, there is a Santa Claus.
DEAR EDITOR: I am 8 years old.
Some of my little friends say there is no Santa Claus.
Papa says, ‘If you see it in THE SUN it’s so.
Please tell me the truth; is there a Santa Claus?
VIRGINIA O’HANLON.
115 WEST NINETY-FIFTH STREET.”
VIRGINIA, your little friends are wrong. They have been affected by the skepticism of a skeptical age. They do not believe except [what] they see. They think that nothing can be which is not comprehensible by their little minds. All minds, Virginia, whether they be men’s or children’s, are little. In this great universe of ours man is a mere insect, an ant, in his intellect, as compared with the boundless world about him, as measured by the intelligence capable of grasping the whole of truth and knowledge.
Yes, VIRGINIA, there is a Santa Claus. He exists as certainly as love and generosity and devotion exist, and you know that they abound and give to your life its highest beauty and joy. Alas! how dreary would be the world if there were no Santa Claus. It would be as dreary as if there were no VIRGINIAS. There would be no childlike faith then, no poetry, no romance to make tolerable this existence. We should have no enjoyment, except in sense and sight. The eternal light with which childhood fills the world would be extinguished.
Not believe in Santa Claus! You might as well not believe in fairies! You might get your papa to hire men to watch in all the chimneys on Christmas Eve to catch Santa Claus, but even if they did not see Santa Claus coming down, what would that prove? Nobody sees Santa Claus, but that is no sign that there is no Santa Claus. The most real things in the world are those that neither children nor men can see. Did you ever see fairies dancing on the lawn? Of course not, but that’s no proof that they are not there. Nobody can conceive or imagine all the wonders there are unseen and unseeable in the world.
You may tear apart the baby’s rattle and see what makes the noise inside, but there is a veil covering the unseen world which not the strongest man, nor even the united strength of all the strongest men that ever lived, could tear apart. Only faith, fancy, poetry, love, romance, can push aside that curtain and view and picture the supernal beauty and glory beyond. Is it all real? Ah, VIRGINIA, in all this world there is nothing else real and abiding.
No Santa Claus! Thank God! he lives, and he lives forever. A thousand years from now, Virginia, nay, ten times ten thousand years from now, he will continue to make glad the heart of childhood.
「クリスマス」って?
真っ白なひげに真っ赤な服、恰幅のいい姿で幸せそうな笑顔。サンタクロースのモデルとなったのは、キリスト教の教父といわれる人物、聖ニコラウス。オランダ語読み「シンタクロース」がその名前の由来です。
聖ニコラウスの逸話
「ある貧しい男が愛する娘を嫁がせようとしたが、持参金がなく途方にくれていた。それを知った聖ニコラウスが煙突から金塊を投げ入れると、金塊は暖炉のそばにぶら下がっていた靴下の中に入った。翌朝金塊を見つけた男は、大喜びで娘を嫁がせた。」・・・そう、サンタクロースが煙突から入って靴下にプレゼントを入れるというエピソードは、ここからきたのです。
一方、北欧には帽子に長靴、ソリに乗った姿の「贈り物をしてくれる妖精」がいたと想像されていました。この妖精と聖ニコラウスのイメージが混ざり合って今日のサンタクロースが誕生したというわけです。サンタさんが赤い服を着ているということを世界的に広めたのは、コカ・コーラ社だという話はあまりにも有名ですね。
世界のサンタクロース
ところで、クリスマスは冬のイベントとは限りません。ニュージーランドではサーフボード、ブラジルではトラックに乗ってやってきます。姿かたちも少し違っていて、アイスランドには13人ものサンタクロースがいるとか。ドイツのサンタクロースは双子で、ひとりはいい子にプレゼントを、ひとりは悪い子におしおきをするそうです。
本場北欧には、国際サンタクロース協会が存在し、世界中に協会公認のサンタクロースがいます。理想的なサンタクロースの条件として、「結婚をしていること」、「子供がいること」、「体重120キロ以上であること(女性は除く)」などが挙げられています。サンタクロースは誰でもなれるわけではなく、一定の条件を満たした人が「サンタクロース試験」に合格することで、はじめて認められます。試験内容は「他のサンタクロースと仲良くできるか」「クッキーの早食いと牛乳の一気飲み」「プレゼントを上手にラッピングできるか」といったもの。なんだか、ほほえましいですね。
また、フィンランドにはサンタさんのインターネットテレビがあります。日本語にも対応していて「サンタさんのお仕事」「サンタさんへのインタビュー」などのコンテンツがあり、見応え十分です。
さらに、毎年12月24日には、北アメリカ防衛空軍基地がサンタさんを追跡しているようです。サンタさんが北極を出発すると同時にレーダーを使い、発見したら戦闘機で追跡するつもり…らしいのですが、いまだに見つかったことはないとか…。サンタさんの空飛ぶソリを引くトナカイはもともと8頭。ダッシャー・ダンサー・プランサー・ヴィクセン・ダンダー・ブリクセム・キューピッド・コメットという名前がついています。そして、あの有名な赤鼻のトナカイ「ルドルフ」が、その8頭の先頭に加わり、合計9頭になりました。
「シークレットサンタ」のお話
アメリカにある実業家がいました。彼は金持ちになることだけが至上の喜びとして会社を興します。しかし、事業は失敗。住む家もなくなり路頭に迷うことになりました。彼は無―文で空腹に苦しみながら、街中を歩き回りました。そんな時、―軒のレストランを見つけました。お金はありませんが、もう限界を超えた空腹感です。彼は捕まることを覚悟して、無銭飲食を決心しました。
料理を注文しました。久しぶりの食事に、彼はむさぼりつくように平らげました。あとは勘定をするだけ。もちろんお金は払いません。一気に店を出て行くのです。
さあ動こうとした時、店長が声をかけてきました。
「これ,落としましたよ。」
なんと,店長の手には20ドル札が!!
もちろん、彼のものではありません。一瞬、彼は躊躇しましたが、「ありがとう」と言って、それを受け取り、そのお金でレジを済ませて店を出ました。彼は罪を犯さなくて済んだわけです。若干の後ろめたさはありましたが、その後、彼は仕事を見つけてようやく生活が安定してくるとともに、そんな後ろめたさもどこかにふっとんでいってしまいました。
彼は再び事業を起こしました。もちろん夢は億万長者です。しかしながら再び事業は失敗し,またまた路頭に迷うことになりました。そして今度は金欲しさに銀行強盗を計画するのです。そして実際,懐に拳銃をしのばせ、銀行に入りました。「よし、今だ。」というとき,2つ目の奇跡が起こります。窓□に駆け寄ったその瞬間、横から女の子が預金をしてほしいと来たのです。そのとき出されたお金が偶然にも20ドル紙幣でした。
彼は思い出しました。何年か前のあのレストランでの出来事を…。そして、彼は強盗をする前に確認したくなったのです。あのレストランの店長は、本当に彼がお金を落としたと勘違いしたのか、それとも‥・。
果たしてそのレストランは、当時のままありました。恐る恐る店に入ると、あの店長が出迎えてくれました。
「いらっしやいませ。」
「あ、あの・・・。」
「はい?」
「あの、店長さん。僕のことを覚えていますか?」
思い切って彼は尋ねてみました。
「何年か前、20ドル紙幣を・・・」
と言いかけた時、店長はそれをさえぎるように言いました。
「覚えてますよ。あの日は、今日と同じ、クリスマスです。クリスマスはみんなが幸せになる曰です。」
「!」
「メリークリスマス!」
なんとも言えない優しさがこめられたその言葉で,彼は,ようやく分かったのです。店長はすぺてお見通しでした。彼が無銭飲食という罪を犯す前に、20ドルをブレゼントしたのでした。クリスマスの曰に目の前の哀れな青年を犯罪者にしたくなかったのです。決して恩を売るわけではありません。「落ちていた」という、優しいウソで彼のブライドも守ってあげたのです。彼が気づかなければ、店長の優しい行為はすべて闇に葬られたのかもしれません。でも店長にはそんなことまったく関係なかったのです。
彼はようやく欲深さで人間としての姿がぼやけていた自分に気がつきました。他人のことなど全く省みす、白分の利益のためだけに邁進してきたこれまでの生き方・・・。この店長のようなさりげない優しさをおそらく今まで数多く受けてきたのだろう。だけど残念ながら、それに気づく心のアンテナが立てられていなかった。自然と彼の目は涙であふれかえりました。
それから彼は人が変わったように仕事をしました。地昧で他人が嫌がるような仕事も進んでやりました。そしてやがて結婚し、子宝にも恵まれました。生活はきつきつでしたが、本当の幸せ,安らぎを得ることができたのです。お金の余裕ありません。だけど、毎月少しずつ貯金をし続けました。
ある曰,彼は銀行に行きました。そしてその僅かな貯金を全ておろしました。しかもそのお金は全て20ドル紙幣としてもらいました。そして彼は赤い服を着て,オーバーオールをはき,顔はサングラスで隠して、夜の街に出て行きました。
クリスマスです。街には華やか飾りつけがあり、人々は歓喜の声で盛り上げます。行き交う人々も本当に楽しそうです。ですが、一歩路地裏に入ると、様々な理由で、住む家もなく、食べる物もなく、暖を取ることもできない、以前の白分のように地べたで丸くなっている人々がたくさんいました。彼は近づき,
「メリークリスマス! 今曰はみんなが幸せになる日だよ。」
と言って,20ドル紙幣を手渡します。最初は戸感うホームレスの人達・・・。ですが、彼のそのまなざしに何のくもりもないことから、そのお金をありがたくいただきました。
「ありがとう。これでご飯が食べられるよ。」
彼は全てのお金を配りました。
毎年毎年,少ない給料からお金をためては、クリスマスの日に配り続けました。素性は絶対に明かしません。常にサングラスで顔を隠し。白分のことは一切しゃべりませんでした。
そんな彼のことを、人々は自然と「シークレットサンタ(秘密のサンタさん)」と呼ぶようになりました。
彼は家族にもこのシークレットサンタを内緒にしていました。なぜなら、普通でも生活が苦しい状況なのに、お金を他人に寄付するなんて、□がさけても言えなかったのです。
しかし、ある年のクリスマス、とうとう彼の奥さんに町で見つかってしまいました。家の生活も苦しいのにお金を他人に配っているのです。当然、そんな行為を納得してくれないと思っていました。
彼は謝りました。今まで黙っていたことに。家のお金をこういう形で使っていたことに。しかし奥さんは間髪入れず、
「どうして謝るの? こんなすぱらしいことをしているのに。」と、全ての行為を理解してくれまたのです。そんな家族の理解も得た彼は、さらに活動を続けました。もう何も気にすることはありません。
毎年、多くの人々と路上で会い、いろいろな話をしているうちに、彼はやはり一番の幸せは、家族(仲間)がひとつになって何気ない話を普通にすることだと気づいたのです。何も特別なことではありません。そして、人と人の心をつなげるために、長距離電話の会社を作ろうと思いつきました。今度は決してお金を儲けるためではありません。純粋に離れ離れになっている家族(仲間)をできるだけ安い通話料でつないであけたいと考えたのです。
この会社は大成功し、彼は超お金持ちになりました。しかし今回は彼は驕りません。ずっとクリスマスのシークレットサンタを続けました。自分の人生を変えた20ドル紙幣を寄付し続けたのです。
しかし、30年近くたって、彼は突然、素性をマスコミに明かしました。病気で余命数ヶ月と宣告されたからでした。自分が今曰あるのは、あのレストランの店長の優しい配慮からでした。彼は死ぬ前に感謝の気持ちを伝えたかったのです。ほんの少しだけでも人々が優しさを持ち寄れば、どれだけの人々がささやかでも幸せになれるか、そんなことをあの店長は教えてくれたのです。それを多くの人々に伝えたかったのです。
テレビカメラの前でインタビューを受ける彼は、以前のふくよかな見た目とは打って変わり、やせ細っていました。しかし彼はその年のクリスマスも街へ繰り出しました。震える足で歩いて、20ドル紙幣を奇付し続けました。そして、その翌年の春先、彼は息を引き取りました。あのシークレットサンタは死んでしまいました。多くの挫折を繰り返しながらも、多くの優しさに触れることによって人聞としての尊厳を失わずに天寿を全うすることができました。彼は天国に召されました。
しかし、奇跡は起こったのです。彼が亡くなったその年のクリスマス。街にはいるはずのないシークレットサンタが、彼と同じ格好をして20ドル紙幣を配ってまわっていたのです。
そうです。彼の30年にわたる優しさの積み重ねが、しっかりと次の世代へと受け継がれていたのでした。
彼が気付き、感謝し、育んできた大事なもの。それは「ギブアンドテイク」ではありません。「テイク」など期待していません。無償の行為です。だからこそ、彼の行為は純粋に人々の心を打ったのでしょう。
今年も、シークレットサンタがアメリカのどこかで20ドル紙幣を配るんでしょうね。すべての人が幸せになるように・・・。
彼は、もしかしたら、人間の本来の温かさに気ずかず、自分だけの利益を追い求めるだけで人生を終えていたかもしれません。でも、彼には変わるチャンスが訪れました。そのチャンスを得た彼は、長い年月がかかりましたが、ようやく本当の幸せを手に入れることができたのです。
私たちにとっても、すぐ近くに変化するチャンスが転がっているのかもしれません。そこに気付くとが大事なことだと思います。
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