皆さん、おはようございます。
中学校の教師になった昭和の時代、毎朝7時には出勤し、早朝練習からスタート。帰宅はいつも夜10時を回っていました。夜中に家庭訪問をし、学校に戻ったら、先輩の先生方が待っておられ、報告や指導を受けると最終電車がなくなり、学校に泊まることも度々でした。まだ、土曜日にも半日の授業がありましたし、日曜日は終日、部活動指導をしていたので、生徒たちといる時間が本当に長かったと思います。
その頃も、毎日、感動的な出来事はありましたが、「教師であることがよかった」と感じることはあまりなかったと思います。
しかし、教師をして10年、20年と経験していくうちに、「教師冥利につきる」と思う感動的な出来事を体験するようになりました。
そのいくつかを紹介しましょう。
ベトナムの教え子
ある中学校で、ベトナムから来た生徒たちを担任しました。
その当時、ベトナムでは南北統一がなされ、ホーチミン市の市長であったGさん一家は、砲弾を浴びながら国外脱出をはかり、ボートで漂流しているところを日本の船に助けられて、日本に来たのでした。
Gさん一家には7人の子供がいて、そのうちの3人を私が担任したのです。私は、まだ教師として半人前で、若く、いい教育など全くできませんでしたが、彼ら・彼女らに対して、他の生徒と分け隔てなく、一生懸命つき合いました。
ある時、6番目のSちゃんという生徒(当時中学1年生)が、「私たちは、明日からオーストラリアに行く」と言ってきました。なんでも、一番上のお兄ちゃんがオーストラリアに行って生活の目処がついたので、一家で移住するというのです。本当にビックリしました。
それから、Gさん一家はシドニーの近郊も町タモスで、パン屋さんを始めました。幸い、ベトナムはかつてフランス領だったこともあって、フランスパンの作り方を知っていたのだそうです。休みもなくパン屋の店をあけて働いたところ、大成功をおさめ、シドニー市内に家をもつことができるようになりました。
そして、7人の子供たちはそれぞれに独立して結婚し、プール付きの豪邸に住むことができるようになったのです。その間、5番目のHちゃんがよく私に手紙をくれたり、電話をかけたりしてくれていました。
2000年、シドニーでオリンピックがありました。Hちゃんから電話がかかってきて、これを機に、ぜひ、家族でシドニーに遊びに来て欲しいというのです。そこで、夏休み2、3日程度ならと思い、妻と当時小学5年生、3年生、幼稚園の子どもたちを連れて、シドニーに行きました。
そうしたら、2階建て、プール付きの豪邸を一軒与えてくれて、「ここで生活して」というのです。そして、毎日のように、誰かが豪勢な料理をもって家に来てパーティをしてくれるのでした。さらに、シドニー市内はもちろん、3泊4日でゴールドコーストにコンドミニアムを取っているからといって、飛行機まで手配して旅行まで計画してくれたのでした。
本当に夢のような毎日で、ついつい甘えて、私たちは家族でなんと3週間もオーストラリアに滞在しました。その間、英語、日本語、ベトナム語が飛び交う中で過ごした子供たちは、すっかり、国際人になっていました。
帰りに子供たちに挨拶をしなさいと言うと、一番下の幼稚園の娘は、
「プリーズ カム トゥー ジャパン サム ダイ」(Please come to JAPAN someday.)なんて、スラスラと言っていました。
本当に大したことは何もしていなかったのに、私のことを神様のように思って慕ってくれていたということを知り、私は教師として、(お金はないけれど)「人的な財産」を持っているなあと感慨にふけったのでした。
学級通信
ある年、国立大学の法学部4回生の教え子M君から手紙が届きました。
「これまで法律の勉強をしてきましたが、アルバイトで塾の先生をしていたら、子どもに教えることが楽しくなって、教師になろうかと思うようになりました。幸い、法学部でも中学校社会科の免許が取れるので、中学校の社会科教師になれる可能性があるのです。」
そして、
「ふと、中学3年生の時に担任をしてもらった先生のことを思い出し、先生が毎日出されていた学級通信を引っ張り出して読み返していたら、ますます教師になりたいという気持ちが高まってきたのです」というのです。
「是非、アドバイスをください。」という内容の手紙でした。
私はその時、大変荒れた中学校の3年生の担任をしていました。クラスの生徒のうち、なんと7人もの生徒たちが校外で様々な問題行動を起こし、鑑別所に出入りしていました。そこで、その手紙をクラスの生徒たちに見せ、生徒たちに返事を書いてもらうことにしたのです。
「先生のように苦労するから中学校の教師になることはやめた方がいい」
というものや、
「是非、先生のような先生を目指して教師になってください」
というものなど、様々なものがありましたが、生徒たちは一生懸命に返事を書いてくれました。
結局、その手紙を受け取ったM君は中学校の教師にはならず、法律の勉強を生かし、かつ、子どもにもかかわれる仕事ということで、「少年鑑別士・調査官」になりました。
調査官は2~3年ごとに全国規模での転勤があるので、その後、私の教え子の中学生が、鑑別所で彼に直接お世話になることはありませんでしたが、知り合いを通して、いろいろと尽力してくれる場面がありました。
M君も今はすっかり調査官としてベテランになり、毎年のように、年賀状をくれたり、近況を知らせてくれたりしています。
学級通信が卒業してからも役に立つことがあるのだなあと思った出来事でした。
躾と体罰
ある年に担任した中学校1年生のH君。体がとても大きく、いつも周りの生徒に暴力をふるい、けがをさせるような生徒でした。周りの生徒たちからも敬遠され、嫌われていました。
ある時、ちょっとした口論から級友をグーで殴ってけがをさせるという、あまりにひどい暴力をしたものですから、当時、まだ若い教師であった私は、つい腹をたててしまい、「殴られた者の痛みがどれほどなのかわからないのか? グーで殴るのとパーで叩くのは違うだろ!」と言い、思わず手を上にあげました。
すると、彼はとても怯えるように「叩かないで」と泣き出したのです。私はその姿を見てハッとし、振り上げた手をおろしました。
その後、家庭訪問をし、ご両親に会って、こんな話をしました。
「お父さんやお母さんは、この子を一生懸命育ててきたと思いますが、これまで、この子に注意をしなければならない時に手を出したことが多いのではないですか。」
案の定、お父さんは小さい頃、自分の父親からよく叩かれたので、躾の一環として、悪いことをしたら叩くということをして育ててきたと言われていました。
私は、今からでも遅くないので、体罰は絶対にしないようにして欲しいと訴えました。その傍で、お母さんが涙を流していたのが印象的でした。お母さんも、体罰はよくないと思っていたのですが、お父さんには直接言えなかったのでした。
それからH君が劇的に変わることはなかったように思いますが、中学3年生で再び担任をした時のH君は、穏やかな目をし、級友から頼もしいと信頼されていました。
お母さんは、「先生のお陰です。先生が家庭訪問して夫に話をしてくれた後、夫が変わってくれたので・・・」と言って話してくれました。即座に私は、「それは私の力でなく、お父さんが偉かったからですよ」という返事をしました。
今、H君は35歳を越えました。卒業してもう20年もなるのに、毎年、お母さんから年賀状を頂戴し、年末にはお母さんの郷土のそばを年越しそばにといって送ってくださるのです。
「子どもは親の鏡」と言われますが、親が変われば子どもが変わるのです。同じことは、教師と生徒の関係でもいえるでしょう。「生徒は教師の鏡」であり、教師が変われば生徒が変わるのです。
先生からもらった忘れられない言葉
ジブラルタル生命という会社が、「Heart to Heart ありがとう、先生!」という番組を 東京FM放送で、週に3回(月・水・金)の朝7時19分から流しています。
2010年から続いているロング番組で、受験の時に先生からもらったアドバイスのコトバ、叱られた時のコトバ、卒業式の日にもらった最後のコトバ、部活の叱咤激励のコトバ、教育実習の時の先輩先生にもらったコトバなど、全国のリスナーから寄せられた「先生からもらった忘れられないひとこと」を純名里沙さんがナレーターを務めて紹介しています。
そこに3名の教え子が投稿してくれていたのです。
「そんなことを言ったっけ?」と覚えていないこともあるのですが、その言葉を糧にしていたなんて、教師冥利につきるというものです。
1.「辛いから逃げるのではない。逃げるから辛くなる。」
中学の恩師の言葉です。高校受験で第1志望をあきらめかけている時に言われました。
この言葉のおかげで頑張り抜くことができ、無事に合格できました。
「なっちゃん」(37歳)
2.「神になんて祈るな。これまで努力してきた自分に祈れ!」
高校受験の前日に担任の先生が書いてくれた言葉です。そのおかげで、これまでの努力を信じて試験に集中することができ、第1志望の高校に合格できました。
「すうちゃん」(30歳)
3.「大きな耳・小さな口・優しい目!」
子育てで悩んでいる時、恩師から頂いた子育ての極意です。この言葉のおかげで、子供にガミガミ言わず、温かい目で見守っていけるようになりました。
「みいみい」(49歳)
この「大きな耳、小さな口、優しい目」は、ロッテの落合博満、ダイエーの小久保裕紀、中日の山崎武司、オリックスのイチロー・田口壮らを育てた元プロ野球打撃コーチで、還暦前に高校教師となって甲子園を目指した高畠導宏さんの言葉です。
『教え子』は財産
教師にとって、『教え子』は財産です。
子どもたちに何を語るか、また、今、自分が話していることが、目の前の児童・生徒の将来の人生にどんな影響を及ぼすだろうかと考えながら、ていねいに言葉をかけていかなければいけないと思います。
教師になって、「教師でよかった」と思えたのは、教え子が成長して20年も30年もたってからでした。
今の若い先生たちに言いたいこと・・・
教師は本当に素晴らしい仕事です。しかし、2,3年、教師やったからと言って教師冥利につきる出来事に出会えることは殆どありません。今やっている教育成果は、20年後、30年後にわかるのです。だから、安易に教師を辞めないでください。
私は大学4年生の時に、たった2週間でしたが、養護学校に教育実習に行きました。その時に担当したM子さんとは、40年過ぎた今でも、年に数回、手紙のやり取りをしています。メールや電話がある今でも、手紙をもらうと嬉しいものです。
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