皆さん、おはようございます。
菅原道真(845-903年)は「学問の神様」として祭られており、受験の時期は、全国の天神さんにお参りする人が絶えませんね。
しかし、菅原道真は九州に左遷され、その恨みで怨霊と化して京都の街に災いをもたらせたという伝説もあります。
本当に「学問の神様」なのか、調べてみましょう。
久方の月の桂も折るばかり 家の風をも吹かせてしがな
この写真は神戸市の須磨天神さんにある菅原道真を抱いた母君像です。
道真が元服の時に、
久方の月の桂も折るばかり 家の風をも吹かせてしがな
と読んで、大いに才名を上げ、学問の家としての我が一族の名を高めてほしいと願ったと言われています。
道真の母君について詳細なことは残っていないそうですが、この像の前に立つと、いかに聡明で愛に満ちた人であったかがひしひしと伝わってきます。
月の中に生えているという月桂樹。古代ギリシャでは、太陽神アポロンの木とされていました。その枝を折るような強い風を起こすくらいに立派に成長し、我が家の家名を上げるような人になって欲しいと、菅原道真公の母君が、菅公が成人された元服の際に送った歌だそうです。この御歌は「拾遺集」に残されています。
「桂を折る」とは中国のことわざで、科挙の試験に及第すること、すなわち、高級公務員試験に合格することをいいます。
ちなみに科挙は、3年に一度しかなく、3000倍という超難関の倍率でした、合格するためには、四書五経(歴史書群)を熟読し、およそ43万1286字の漢字を覚えないといけないとされていました。その他、書道や言葉の試験,人柄をみる検査までありました。
東風吹かば 臭ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな
時は、平安初期。この頃、藤原一族が政権を握っており、宇多天皇は、そのことを快く思っていませんでした。
「なんとか藤原氏の勢力を削ぐことが出来ないだろうか」と宇多天皇は考えました。
そこで思いついたのが、藤原氏に対抗できる人物の起用でした。その切り札として選ばれたのが、菅原道真でした。
894年(寛平6年)、右大臣となった道真は遣唐使の廃止を上申します。宇多天皇は道真の進言を受け入れ、遣唐使を廃止しました。道真は、宇多天皇という後ろ盾もあり、政治の中枢で活躍します。しかし、当然のことながら、藤原氏の強い反発をかうのでした。
道真の活躍に、藤原氏の反感は頂点に達し、なかでも、道真の政敵であった藤原時平は、道真追い落としの機会を窺い続けます。そして、897年(寛閉9年)、宇多天皇が醍醐天皇に位を譲り出家すると、藤原時平は一計を案じ、醍醐天皇に上申します。
「菅原道真は自らの野心のため、醍醐天皇に代わる天皇を立てようと企てています。」
時平の策略はまんまと成功し、道真に突如の人事異動が発令されます。それは、「菅原道真に九州大宰府権帥を命ず」というものでした。
宇多法王は道真左遷の一報を聞き、抗議しに内裏に駆けつけたのですが、内裏の門は閉ざされたままで、中に入ることすら出来ませんでした。道真は弁明する機会すら与えられず、妻子とは別離となり、901年(延喜元年)1月25日、大宰府へと下っていきました。
道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された1月25日は「左遷の日」として知られています。
道真は都を去るにあたって、歌を詠みました。
東風吹かば 臭ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな
好きだった庭の梅の花に、別れを告げたのです。
そして、道真が都へ戻れることは二度とありませんでした。都にいた妻の死をはるばる大宰府で聞き、濡れ衣を晴らせないまま、大宰府にきて2年後、903年(延喜3年)2月25日に亡くなりました。
道真の命日が2月25日だったため、例年その日には、北野天満宮で梅花祭が行なわれています。境内にある幾つかの牛の像は、道真が亡くなったのが、丑の年・丑の日・丑の刻であったことから奉納されたもので、牛の頭をなでると、頭が良くなると言われています。
一説には、天も人も怨まず、ひたすら国家の平和と天皇の無事を祈りつづけていたともいわれています。もとより、真偽のほどは知るよしもありません。
道真が好きだった庭の梅は、道真を慕い、はるばる大宰府まで飛んできて根をおろしたという飛梅伝説が残っています。
太宰府天満宮にある「飛梅」
「怨霊伝説」
大宰府に来てからの道真は、心を静めようと神に祈り続けました。しかし、離散した家族のことが頭から離れません。道真の心は狂いそうになるのでした。そのうえ、天皇は自分を逆臣と決めつけ、弁明の機会すら与えない。どうしようもない気持ちで過ごす日々は、道真の健康をも蝕んでゆきます。
そして、道真は、無念の気持ちを抱いたまま、死を迎えるのでした。と同時に、道真は、怨霊と化すのです。
京では、藤原時平の行動は鮮やかでした。道真追放に成功すると、すぐその後がまの右大臣に源光を抜擢し、 その他多くの役職に自分の身近な者を配置しました。時平を中心とする藤原氏のクーデターは、まんまと成功したのです。その時平のもとに、「道真死す」の報が届きます。「これで自分を脅かす者はもういない。藤原氏の勢いも、もとの通りになるだろう。」時平の心は満たされていました。
ところが、この直後から都には次々と異変が起こりだしたのです。
旱魃(はやり病)や飢饉が続きます。そして時平の周囲には不幸が相次ぎます。
道真の後がまとして、右大臣となった源光が狩の最中、底なし沼に飲み込まれてしまいます。死体すら上がってきません。さらに、時平に近い者が次々に病気や事故で死んでいくのです。 930年(延長8年)6月26日、内裏での評議中でのこと、にわかに雷雲がたちこめます。一瞬の雷光が平安京の清涼殿にいた大納言藤原清貫(きよつら)を直撃し死亡します。
この事件で、ほとんどの人は、菅原道真の祟りだとの確信にいたります。今も、6月26日 は「雷記念日」となっています。
それからも毎日のように、都には雷鳴が鳴り響きました。醍醐天皇は、思い悩んだあげく退位し、朱雀帝に譲位します。しかし、気を病んだまま、その数ヵ月後に亡くなりました。
もはや、宮廷内は恐怖のどん底でした。藤原時平は毎晩のように、道真の怨霊にうなされます。そして病の床につき、僧を呼び祈祷しますが、どうにもなりません。時平は毎日、苦しみうなされながら死んでしまいました。
それでも道真の祟りはおさまりません。天皇后となった時平の娘とその子である皇太子(時平の孫)も相次いで病死します。
さらに、時平の三男はじめ、時平の一族ほとんどが一時に病死したのです。
「道真の怨霊をどうしたら静められるか」・・・このことが内裏における一番の重要課題とされました。朝廷は、道真の罪を取り消し、もとの大臣の位に復させました。
そんな時、比良神社(滋賀県)の神官のもとに菅原道真が現れ、「北野の千本の松が生えたあたりに祠を建てよ」と告げたと言われています。その北野の地には、一夜にして千本の松が生えていました。そこで朝廷は、その地に壮大な天満宮を建てたのです。
やがて道真の怨霊はおさまり、京は平安に戻ったのでした。
日本三大怨霊
怨霊とは、祟りや災いをもたらす悪霊のこと。強い恨みや憎しみを抱く人の魂が怨霊となって現れるとして恐れられてきました。
人々は、怨霊を神(御霊)として祀り崇めることで祟りを鎮め、平穏と平和を取り戻そうとしました。これが御霊信仰です。
日本三大怨霊とは、菅原道真、平将門、崇徳天皇の3人とされています。
1.菅原道真(845-903年)
中流貴族の家に生まれた菅原道真は、幼い頃より学問や詩歌の才能を発揮し「神童」と呼ばれていました。学者、漢詩人、政治家と多彩な才能を持った菅原道真は、870年に官吏登用試験で抜群の成績を修めて任官。天皇からの信頼も厚く、遣唐使の廃止を進言したことでも知られています。
菅原道真はやがて朝廷の最高職とも言われる右大臣に就任し、藤原氏と並ぶ権力の絶頂期を迎えました。しかし、そんな菅原道真の出世を快く思わない人も多く、中でも当時のもう一人の権力者である左大臣・藤原時平はその筆頭でした。
藤原時平は当時の天皇、醍醐天皇に「菅原道真は天皇を廃帝させるために陰謀を企てている」と伝え、菅原道真は無実の罪を着せられることに。その後、時平の言葉を信じた醍醐天皇により、菅原道真は左遷され大宰府に送られてしまいます。
その後の弁明などは一切聞き入れられることなく、囚人同様の扱いで太宰府に幽閉された菅原道真は、失意のうちにわずか2年で非業の死を遂げました。
その後は菅原道真に代わって権力を握った藤原時平の覇権が続くと思われましたが、藤原時平は39歳で突如亡くなってしまいます。さらにその後、宮廷内で落雷が発生して複数の貴族が命を落とし、やがては菅原道真を左遷した醍醐天皇とその皇太子までもが病で立て続けに亡くなってしまいました。
これらの一連の出来事は、菅原道真の怨霊による祟りであると恐れられ、死後にも関わらず太政大臣や左大臣の位を与えて怒りを収めようとしました。しかしそれでも災いが止まることはなかったため、最終的には菅原道真の魂を神として祀るべく、北野天満宮が建立されることとなります。
菅原道真は落雷をもたらしたことから雷神として崇められ、「天神様」と呼ばれるようになりました。時がたつにつれて怨霊としての恐ろしさは弱まっていき、代わりに生前学問の才能に秀でた菅原道真にあやかろうと、「学問の神様」として崇められるようになりました。菅原道真を祀った天満宮は全国に数多く存在し、現在では受験の合格祈願の名所としてすっかり有名になりました。
2.平将門(903-940年)
平将門は平安中期の関東の豪族で、桓武天皇の子孫である平氏の一族であり、元々京で藤原氏に仕える武士の一人でした。しかし、父親である平良将(よしひら)の死去をきっかけに関東へと戻ると、領地の相続を巡り親族間で争います。
叔父であった平国香(くにか)や平良兼(よしかね)に相次いで襲撃を受けた平将門ですが、いずれも返り討ちにして完全勝利を収めます。すると、その武勇はたちまち関東に知れ渡り、多くの武士たちが平将門の元に集まるようになりました。
勢いに乗った平将門は、関東八カ国の国府を襲って行政官である国司を追放してしまいます。そして自らを「新皇」と名乗り、日本半国を有する新国家の樹立を宣言。当時、関東の国々は国司の圧政に苦しんでいたため、新国家樹立は市民とって喜ばしい出来事だったと言います。
しかし、この行為は朝廷への反逆とみなされ、平将門の追討令が出されます。そして新国家の樹立を宣言してからわずか2ヶ月で、平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ひでさと)にあえなく討ち取られてしまいました。
この一連の出来事は「平将門の乱」と呼ばれ、貴族の世から武士の世へと変革するきっかけとなった歴史的クーデターとして語り継がれることとなります。
討ち取られた平将門の首は京へと送られ、都の河原に晒されることとなりました。しかし、無念の死を遂げた平将門の首には、奇妙な出来事が立て続けに発生。何ヶ月も目を閉じなかった、夜中に歯ぎしりをしたといった噂が絶えなかったのです。人々は平将門の強い怨念としてこれを恐れました。
そしてついには、首が体を求めて関東へと飛んでいったという伝説まで残っています。飛んでいった先に建てられたのが、現在の東京都千代田区・大手町にある将門塚(しょうもんづか)と言われています。
奇妙な出来事はなんとこれだけでは終わりません。関東大震災の後、全焼した大蔵省庁舎の仮設庁舎を首塚のある場所に建てたところ、当時の大蔵大臣をはじめ関係者が次々と亡くなり、庁舎は取り壊されることとなってしまいました。
また、戦後にGHQが駐車場の建設のために首塚を取り壊そうとしたところ、重機が横転して運転手が亡くなるという事故も発生しました。
平将門の首塚を取り壊そうとするたびに不吉な出来事があまりにも多く起きるため、いつしか平将門の怨霊による祟りと噂されるようになりました。平将門の首塚には現在でも数々の不思議な出来事が起きるという噂が後を絶たないそうです。
3.崇徳天皇(1119-1164年)
鳥羽天皇と藤原璋子の間に第一皇子として誕生した崇徳天皇は、3歳という幼さで日本の第75代天皇として即位しました。しかし、実権を握ることはほとんどなく、さらには上皇となった鳥羽上皇の計略によって10代のうちに強引に天皇を譲位させられることに。
崇徳天皇は上皇となり「崇徳院」と呼ばれるようになります。和歌を愛した人物としても知られ、崇徳院の詠んだ和歌は百人一首にも選ばれています。
鳥羽上皇の死後、自分の不当な扱いに不満を募らせた崇徳上皇は、朝廷の実権を奪い返すため当時の天皇・後白河天皇に戦いを挑みました。こうして朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、「保元の乱」という皇位継承争いが勃発。戦いは激しい武力闘争へと発展します。
最終的に崇徳上皇は敗れ、出家をすることになります。当時は皇族が乱を起こしても出家さえすれば罪に問われないのが慣例でしたが、崇徳上皇は讃岐(現在の香川県)へ流されるという厳しい処分を受けました。
讃岐に幽閉された崇徳上皇は、仏教に深く傾倒し、5つの写本を仕上げます。京都の寺に納めて欲しいと朝廷に差し出したところ、あろうことかこの写本は「呪いが込められているのではないか」として送り返されてしまいました。
その屈辱以降、崇徳上皇は「妖怪に生まれ変わって無念を晴らす」として死ぬまで髪と爪を伸ばし、鬼のような形相へと変わったといいます。そして最後まで京へ戻れずこの世を去ることになります。
崇徳上皇の死後、延歴寺の強訴や安元の大火など、日本を揺るがす事件が立て続けに発生しました。また、崇徳天皇と敵対していた後白河法皇の身内が次々と亡くなります。
これら一連の出来事は、崇徳上皇の怨霊が引き起こす祟りであると考えられました。そこで保元の乱の戦いの場に「崇徳院廟」が建てられ、罪人の扱いは取り消されることになりました。
しかし、その後も後白河天皇が亡くなるまで災いは止まなかったと伝えられています。崇徳天皇の怨霊はその後の天皇にも恐怖を与え続け、明治時代以降の天皇も崇徳天皇の鎮魂の行事を執り行っています。
天神様のご利益は?
やっぱり「大吉」
ある年、中学3年生の修学旅行の引率で、太宰府天満宮に行きました。当時は、公立学校での宗教分離にほとんど規制もなかったので、高校受験の年だということもあり、全員で参拝をし、おみくじを引きました。
結果は「大吉」。生徒たちも大変喜んでいました。
そして、そのクラスの生徒たちの受験結果は、一人を除いて、私立高校、公立高校とも、全員合格でした。ただ、その一人というのは、急に体調を崩して、修学旅行に参加できなかったN君でした。だから、余計に天神さんのご利益があったと感じてしまったのでした。
凶のフォアカード(クアドラプルquadruple)
大学受験を控えた長男と高校受験を控えた次男を連れて、京都の北野天満宮にお参りに行きました。
長男は大阪の国立大学を、次男は高専を希望校に絵馬に書き、ご祈祷してもらい、その後、おみくじをひきました。
すると、2人とも「凶」が出ました。これは縁起が悪いということで、妹にもおみくじをひかせると、またしても「凶」でした。これは両親で挽回だと言ってひいてみると、私は「小吉」でしたが、妻も「凶」。凶が4枚、クアドラプル・・・帰りの車の中では、重苦しい雰囲気で誰もしゃべりませんでした。
そして、受験。
長男は大阪の国立大学受験をやめて福岡の国立大学に志望校を変更。次男はそのまま高専をしたものの不合格で、別の高校の方に進学しました。
しかし、それぞれ、進学した先で、大学生活や高校生活を充実させていたようで、結果として、あの時、「凶」が出たことがよかったのかもしれないと言っています。
「凶」運は、「強」運
また、ある年、中学3年生の担任をしました。受験の直前に、近くの天神さんに代表の生徒と参拝に行きました。
代表生徒が引いたおみくじをこっそり見てみると、なんと「大凶」でした。
そこで、生徒にはそのおみくじを見せず、「君たちは実に運がいい。運も実力のうちだ。きっと、受験は「凶(強)運」で全員合格だろう」と言うと、本当にその通り、全員、私立高校も公立高校も合格でした。生徒たちは皆、大吉だったと信じていたようです。
合格祈願よりも大切なこと
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と言われます。怨霊と化した菅原道真が、雷を司る天神様として祀られるのは合点がいきますが、私は学問の神様として祀られているのは、少し哀れさを感じます。
一生懸命に勉強して、早くに出世したにもかかわらず、左遷の目に遭い、家族とも別れて異郷の地で亡くなった道真のことを、「久方の 月の桂も折るばかり 家の風をも 吹かせてしがな」と詠んだあの母君は、いったいどんな思いだったのしょうか。
昔、「早く君」という人がいました。いつも「人より早くする」ことを教えられてきました。誰よりも早く行動し、人一倍勉強したので、人より早く進学し、就職しました。結婚も早く、子どももすぐにできました。人よりも早く出世しましたが、誰よりも早くに死んだというお話です。
勉強することは、人と競争し、勝って人から恨みをかうためにあるのではありません。
勿論、受験は競争ですから優劣がつきます。しかし、単に自分の受験合格を菅原道真公に願うのではなく、世のため人のためになるような勉強ができるようになることを願うのが本来の姿ではないでしょうか。
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