皆さん、おはようございます。
歴史の教科書に書いてあることには〝嘘〟があります。
40年ほど前、私は中学校の社会科の教師をしていましたが、「社会は暗記教科だ」と言って教えていたことは、今では嘘を教えていたこともあります。
たとえば、古代の遺跡がみつかって、歴史が変わることもありますし、最近は、放射性炭素年代測定法などが進み、歴史がひっくり返ることもよくあります。そして、何より、歴史は、その後の統治者の都合や解釈によって歪められて伝達されてきたということが多々あるのです。
以前、教科書に書いてあって教えてきたことから、最近変わったことをまとめてみました。
日本史編
旧石器時代 – 紀元前14000年頃
1931年に考古学者、直良信夫によって発見された「明石原人」は東京大空襲で焼失し、その後の研究調査では1万年より新しいものという新人説が有力視されている。
縄文時代 前14000年頃 – 前3-5世紀
「縄文時代には豊かな自然の恵みの下、人々は平和に暮らしていた」ということはなく、縄文時代は、あまりにも貧しくて人口は増えず、人々は戦争を起こす余力もなかった。また、縄文時代後期の遺跡からは、戦いの跡が発見されている。
弥生時代 前3-5世紀 – 後3世紀中頃
日本で稲作が始まったのは弥生時代からではなく、縄文時代の中頃にはすでに稲作が始まっていた。
弥生時代に渡来人が来て米作りを始めたのではなく、むしろ逆に、縄文時代から日本から朝鮮半島に進出していた。
古墳時代(大和時代) 3世紀中頃 – 7世紀頃
日本最大の前方後円墳は、「仁徳天皇陵」ではなく、「大仙古墳」(大仙陵古墳)
日本最古のお金は、「和同開珎」ではなく、「富本銭」
飛鳥時代 592年 – 710年
冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した政治の中心人物は、聖徳太子ではなく、蘇我馬子とともに共同で執政した「厩戸王(うまやどおう)」
607年、聖徳太子の派遣した遣隋使として隋におもむき,「日出づる処の天子……」に始まる国書を呈し,隋の煬帝 (ようだい) の怒りをかった小野妹子が最初の遣隋使でなかった。
大化の改新は「645年」ではなく、「646年」から。もしくは、そもそもなかったかも?
奈良時代 710年 – 794年
平城京を中心に東大寺・興福寺・春日大社などの寺社が建立され、国際色豊かな仏教文化が花開いた奈良時代は悠久の歴史ロマン溢れる時代というイメージがあるが、その実態は、天皇・皇族・貴族による血で血を洗う権力争いが続いた密告と殺戮の時代であった。
平安時代 794年 – 1185年
四国遍路を始めたのは弘法大師・空海(744-835)ではなく、空海の弟子であった修行僧らが空海の遍歴をたどったことが始まりである。
王朝国家 10世紀初頭 – 12世紀後期
平氏政権 1167年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
鎌倉幕府が開かれたのは「いい国(1192)作ろう」1192年ではなく、1185年
1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」とよばれるモンゴル帝国および属国の高麗によって行われた蒙古襲来(元寇)では、戦闘中に神風が吹いたという事実はなく、撤退時に暴風に遭っていた。
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
南北朝時代 1337年 – 1392年
南北朝時代 1337年 – 1392年
1561年、第四次川中島の戦いで、武田信玄と一騎打ちになったのは上杉謙信ではなく、家臣の荒川伊豆の神だった。
「敵に塩を送る」の語源になった感動エピソードは、上杉謙信が卑怯だからという理由で塩留めを拒んだのではなく、塩の取引が自国の利益になると考えていたからである。
武田の騎馬隊が戦場を駆け巡ったという事実はなかった。馬に乗れるのは身分の高い者で、1割弱の騎兵しかおらず、日本の馬は130cmほどのポニーに分類されるので、逃げる敵を追撃したり、敵から逃げたりする時にしか使えなかった。
1566年、豊臣秀吉が木下藤吉郎だった頃、織田信長のために一夜で墨俣城を作ったという「墨俣一夜城」の話は、明治時代の末期に渡辺世祐が書いた「武功夜話」の作り話である。
織田信長が、1575年の長篠の合戦で鉄砲の三段打ちを行って武田軍を打ち破ったという事実はなく、 圧倒的兵力の差で打ち負かした。
織田信長が豊臣秀吉のことを「猿」と呼んだという記録はない。
1571年、織田信長の延暦寺焼き討ち事件で、比叡山全体が全焼したのではなく、ボヤ騒ぎ程度の建物への放火だった。
最初に楽市楽座を始めたのは織田信長ではなく、1549年、近江の武将、六角定頼が観音寺城下町で始めたのが最初である。
1582年、山崎の戦いにおいて、明智光秀と豊臣秀吉が天王山を争ったという「天下分け目の戦い」の事実はなく、江戸時代の作家、小瀬 甫庵の書いた「太閤記」の作り話である。
アニメの一休さんのモデルとなった室町時代の一休宗純は、とんち小僧ではなく破天荒な人物であった。
安土桃山時代 1573年 – 1603年
明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったという史料的な根拠はない。
光秀は「謀反」を起こした裏切り者ではなく、信長を「自害」に追い込んだ討伐者
豊臣秀吉の刀狩で没収されたのは文字通り刀だけで、槍や弓、鉄砲などの武器は没収されなかった。争いごとを武力で解決するのを禁止する意識改革のために刀狩が実施された。
盗賊の首長、天下の大泥棒であった石川五右衛門は、熱湯で煮えたぎる窯に息子ごと入れられて殺されたのではなく、貴重な植物油で煎り殺された。
正座が茶道における伝統的な姿勢というのは間違いである。千利休の時代の茶道に正座という作法は存在しなかった。正座をすることを命じたのは、徳川家光であり、明治以降畳の普及とともに庶民にも正座が広まっていった。
江戸時代 1603年 – 1868年
江戸時代、「士農工商」という身分制度は存在せず、武士の下に農民と町民が併存していた。「士農工商」は中国語に由来し、民全体を意味する言葉で、身分というよりは職分であった。
吉川英治の小説「宮本武蔵」によって紹介された1612年4月13日に行われたとされる「巌流島の戦い」の相手は、佐々木小次郎ではない可能性が高い。
参勤交代で庶民が土下座しなければならなかったというのは徳川御三家のみで、他の大名の場合は頭を少し下げるだけでよかった。
「生類憐れみの令」を発して「犬」将軍と言われていた江戸幕府5代将軍、徳川綱吉はバカ殿ではなく、立派なお殿様だった。
「大日本史」を編集した水戸光圀(水戸黄門)は、全国を旅するどころか、関東地方を離れたこともなかった。
「解体新書」を翻訳したとされる杉田玄白はオランダ語が苦手で、翻訳の中心となったのは前野良沢であった。
「松下村塾」を設立したのは吉田 松陰ではなく、松陰の叔父の玉木文之進で、名前の由来は、塾のある場所が松本村だったからである。
身長180cm、体重90kgを超える大男であった二宮 尊徳が働き始めたのは14歳頃からであり、薪を担ぎながら読書をする姿には信憑性がない。
「東海道五十三次」や「富士三十六景」で有名な江戸時代の浮世絵師は、戦後の教科書には「安藤広重」と書かれていたが、1980年ころから「歌川広重」が併記されるようになり、1994年以降は「安藤広重」の名は消えています。
鎖国 1639年 – 1854年
江戸時代幕府は交易の統制・管理とキリスト教拡大の阻止のため、鎖国をしたのではなく、「海禁」をしていた。
ペリーは「開国」を求めにきたのではなく、「開港」を求めに来た。また幕府は黒船来航を事前に把握していた。
漁の最中に嵐に遭い、アメリカ船に拾われ、日米和親条約の締結や通訳で活躍した中浜万次郎が「ジョン万次郎」と呼ばれていたことは一度もない。
幕末 1853年 – 1868年
薩長同盟は倒幕のための軍事同盟ではなく、坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介により、長州藩の朝敵からの解除、および中央政界復帰が目的であった
「五箇条の御誓文」ではなく、「五箇条の誓文」
西郷隆盛は本名ではなく、「隆永」という本名があるにも関わらず、父親の名前である隆盛を名乗っていた。
自由民権運動の指導的立場にあった板垣退助が演説中に暴漢に襲われた時。「板垣死すとも自由は死せず」と言ったことはなく、後に「痛くて声も出なかった」と回顧している。
明治時代 1868年 – 1912年
日本人が肉を食べるようになったのは明治時代以降ではなく、古代から現代に至るまで肉食が行われなかった時代は存在しない。
大正時代 1912年 – 1926年
昭和時代 1926年 – 1989年
戦前 1932年 – 1945年
戦後(占領時代) 1945年 – 1956年
戦後焼け野原となった東京で、アメリカ兵が「ギブ・ミー・チョコレート」とねだる子供達に配ったチョコレートやガムの費用は、すべて日本が負担していた。
平成時代 1989年 – 2019年
令和時代 2019年 –
世界史編
原始 紀元前3000年以前
世界最古の人類は500年前にアフリカ東部に誕生したアウストラロピテクスではなく、700万年から600万年前にアフリカ中央部に存在したサヘラントロプス・チャデンシスである。
世界の文明はエジプト、メソポタミア、インダス、黄河の世界四大文明から始まったという説は否定されている。
古代 紀元前3500(3000)年頃~西暦500年頃
紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハムラビ王が発布したハンムラビ法典は、「目には目を、歯には歯を」という復讐法ではなく、行き過ぎた復讐を阻止するための条文であった。
「平和の祭典」と言われる古代オリンピックで、聖なる休戦が実際に守られていたのは、ペルシア戦争(紀元前499-449年)の50年間だけで、そこから古代オリンピックが中止されるまでの850年余り、守られていたことはない。
エジプト女王クレオパトラ(B.C.69-B.C.30)は絶世の美女とは言えず、知性があり、魅惑的な声を持っていたと記されている。
ユダヤのヘロデ大王がベツレヘムでキリストが誕生した際、国中の幼児を虐殺したという話の信憑性はなく、ヘロデ大王は、公共事業や神殿の改築など、都市計画に力を入れた良き統治者であった。
イエスキリストの誕生日が12月25日という記述は新約聖書には見られない。12月25日がキリストの誕生日になったのは、太陽の力が増し始める冬至の日に合わせたからという説が一般的である。
イエスキリストが処刑された日は、新約聖書には金曜日とのみ書かれて、13日という記述は見られない。13が忌み数とされるのは、最後の晩餐の席にいた人数(キリストと12人の弟子)が由来である。
ローマ大火、キリスト教徒の迫害など、ローマ帝国第5代皇帝ネロ(37-68)が暴君だったというのはキリスト教史観によるものであり、ネロ皇帝の最初の5年間はローマ最良の時代と呼ばれるほど安定した政治を行っていた。
紀元前3世紀、秦の始皇帝が周辺遊牧民の侵入を防ぐために作ったといわれる万里の長城は、秦の時代から千年以上たってから作られたものだった。
中世 500年頃~1500年頃
「黄金の国ジパング」を「東方見聞録」でヨーロッパに紹介した、14世紀の冒険家、マルコ・ポーロ(1254-1324)は一度も日本を訪れていない。
大航海時代のイタリア人探検家・航海者のクリストファー・コロンブス(英語)、クリストーフォロ・コロンボ(イタリア語)、クリストバル・コロン(スペイン語)は、キリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達した「新大陸発見」者ではなく、1492年、大西洋を横断しただけのコンキスタドール(征服者・侵略者)・奴隷商人であった。
※1960年、ノルウェー人探検家ヘルゲ・イングスタッドとその妻で考古学者のアン・スタイン・イングスタッドがカナダ東部のニューファンドランド島でランス・オ・メドーという考古遺跡を発見し、コロンブスの新大陸発見説が覆った。1978年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
※北アメリカに最初に居住したのは、西暦1000年頃、ランス・オ・メドーに到達した、アイスランド生まれのノルマン人航海者でヴァイキングのレイフ・エイリクソンと考えられている。
イタリアの探検家であるコロンブス(1451-1506)が新大陸を発見した後、スペインで貴族のパーティーに出席した際、「大陸発見は誰にでもできる」と評されたコロンブスが、卵を立てることを試みさせ、一人もできなかった後に卵の尻をつぶして立てて見せたという逸話から、一見誰でも簡単にできてしまいそうなことでも、最初に行うことは難しいということを意味する『コロンブスの卵』はコロンブスの発案ではなく、1400年頃、イタリアの金細工師・彫刻家でルネサンス最初の建築家フィリッポ・ブルネレスキも卵の底をつぶして立てるという方法を用いて相手を説き伏せている。
大航海時代、1522年、船で世界一周をしたのはマゼランではなく、マゼランの船団である。ポルトガル出身のスペインの航海者・探検家フェルディナンド・マゼラン(1480-1521)は、世界一周の途中、1521年、フィリピンのセいいブ島で戦死している。
地動説を最初に唱えたのはニコラウス・コペルニクス(1473-1543)ではなく、コペルニクスより2000年前の古代ギリシャの天文学者アリスタルコスである。コペルニクスが唱えたのは太陽中心説であった。
近世 16世紀〜18世紀初頭
教会の異端審問で、イタリアの科学者、ガレリオ・ガリレイ(1564-1642)がコペルニクスの地動説を支持し、「それでも地球は回ってる」と言ったのは後世の作り話と考えられる。
ガリレオは、その後、軟禁され、獄死するが、20世紀の終わり頃、教皇ヨハネ・パウ2世 がガリレオ裁判の誤りを謝罪し、2008年に教皇ベネディクト16世がガレリアの功績をたたえ、公式に地動説を認めた。ガレリアは400年を経て名誉を回復したのである。
1688年、イギリス議会がジェームズ2世を追放し、オランダからウィレム3世とメアリを迎え、イギリス立憲君主政治が確立した名誉革命は無血革命ではなく、実際はオランダとイギリスの間で戦闘が起っていた。
太陽王ルイ14世(1638-1715)が「朕は国家なり」と言ったというのは、18世紀の思想家ヴォルテールの作り話である。
イングランドの科学者、アイザック・ニュートン(1643-1727)が木から落ちるりんごを見て万有引力の放送を発見したというのは後世の作り話と考えられる。
アメリカ初代大統領、ジョージ・ワシントン(1732-1799)の「桜の木の話」は後世の作り話である。
近代 18世紀後半~20世紀中期
北イタリア侵攻のため、アルプス越えを行ったナポレオン(1769-1821)は、白馬でなく、ラバに乗って山を越えていた。
1789年、フランス革命の始まりであるバスティーユ牢獄の襲撃で大勢の政治犯が解放されたのではなく、牢獄に収容されていたのはたったの7人で政治犯は1人もいなかった。
「種の起源」を記し、進化論を唱えたイギリスの科学者、チャールズ・ダーウィン(1809-1882)は生物学者ではなく、地質学者だった。
ダイナマイトを発明したスウェーデンの科学者、アルフレッド・ノーベル(1833-1896)は、ダイナマイトが武器として使われたことを嘆いたというのは作り話で、兵器として使われることは想定済みだった。
アメリカの発明家、トーマス・アルバ・エジソン(1847-1931)が「天才は1%のひらめきと99%の努力である」と言ったのは間違いで、「1%のひらめきがなければ、99%の努力は無駄である」が正しい。
電球を最初に発明したのはエジソンではなく、イングランド出身のジョゼフ・ウィルスン・スワンが最初に白熱電球を発明した。エジソンは電球の商用化に貢献したのが正しい。
ノルウェーの画家のエドヴァルド・ムンクが1893年に制作した『叫び』に描かれている人物は叫んでいるのではなく、耳に手を当てて周りの音を聞かないようにしているのである。
現代 20世紀後半〜現在
教科書も間違っていた歴史常識のウソ (彩図社文庫) [ 常識のウソ研究会 ] 価格:712円 |
「皆さん、おはようございます」授業では教えない“生き方”教育 スライドで語る全校朝礼のお話/長井功【1000円以上送料無料】 価格:1280円 |
「皆さん、おはようございます」授業では教えない“生き方”教育 スライドで語る全校朝礼のお話【電子書籍】[ 長井功 ] 価格:1000円 |