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オリンピック陸上競技 感動4話

タイトル オリンピック陸上競技
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オリンピックでは数々の感動話を生んできました。今日は、陸上競技に関する感動話を4話、紹介しましょう。

「君ならできる」

2000年シドニー大会では、高橋 尚子選手が女子マラソンで優勝を飾りました。

そのオリンピック優勝の直前、小出 義雄監督が、「君ならできる」という本を出して、話題を呼びました。なんと、その本には、高橋選手の優勝が予言されていのですから驚きです。高橋選手は、「君ならできる」と言われ続けて育ったのです。

言葉には、人生を左右する力がありますね。

「努める者は何時か恵まれる。」

女子のオリンピック陸上競技では、日本勢はこれまでマラソン競技で高橋 尚子選手(2000年,シドニー大会)や野口 みずき選手(2004年,アテネ大会)が金メダルを取るなど活躍してきましたが、トラック種目でメダルを取った選手は、まだ一人しかいません。1928年(昭和3年)に行われたアムステルダム大会、女子800mで銀メダルに輝いた人見 絹枝選手(明治40年1月1日生れ,岡山市出身)です。

オリンピックに女子陸上が採用されたのが、このアムステルダム大会からでした。しかし、この大会では100m,800m,走り高跳び,円盤投げ,4×100mリレーの5種目しか採用されませんでした。人見選手は、走り幅跳びや三段跳びを得意としていました。そこで、100mにエントリーすることにしたのです。

オリンピック前年には、100mで12秒4,50mで6秒4の世界タイ記録,そして200mでは26秒1の世界新を出し、一躍、金メダル候補として世界から注目されました。また、オリンピック直前の日本代表選考会では、100m12秒2の世界新を樹立し、女子選手としてたった一人、オリンピックに臨んだのでした。

そして、7月30日、オリンピック本番。重圧から人見選手は、食事も喉を通らないまま、競技場に向かいました。

勝とう。走れるだけ走ろうと考えれば考えるほど、苦しくなってくる。」と述懐しています。]

しかし、人見選手は、なんと100m準決勝で、よもやの敗退を喫してしまったのです。

何ということだ。負けたのか。もう目の前は真っ黒になって、奈落の底に落ちたような気分であった。

しかし、その翌7月31日、人見選手は、竹内監督に800mのエントリーを直訴します。その場に、日本人初、オリンピック陸上競技で金メダルを取った三段跳びの織田 幹雄選手がいました。織田氏は、この時の様子を、

いまだ一度も走ったことのない苦しい800mに出て世界の強豪を相手に走ろうというのだから、その無謀さには竹内さんならずとも反対せざるを得なかった。しかし、人見さんの決意は固く、このままでは日本に帰れぬと泣いて訴えたので、出場を認めるほかなかった。」と語っています。

女子陸上界の未来を思う人見選手の気持ちが監督の反対を押し切り、急遽、800mに出場することになったのです。初めて走る800mでした。

8月1日に行われた予選ではなんとか2位に入ったものの、全体では予選通過者9人のうち8番目の記録でした。

しかし、人見選手は、翌8月2日の決勝で、2分17秒6の世界記録で2位に入り、奇跡の銀メダルを獲得したのでした。

その後、人見選手は、女子陸上普及や女子スポーツの重要性を訴えて全国を回りました。

人生はすべて戦いです。女も戦う時代なのです。強い意志、丈夫な肉体、フェアな精神は、すべてスポーツによって育まれるのです。」

残念ながら、24歳にして過労から肺炎を患い、昭和6年、「ゴールに入る」という本を出版した後、亡くなりました。人見絹枝選手が後輩に残した言葉を紹介しましょう。

「大空に向かって階段を駆け上がれ!」

1928年(昭和3年)のアムステルダム大会で陸上競技界、日本人初の金メダルを得たのは、三段跳びの織田 幹雄先生でした。後年、陸上の指導に精を出され、私も生前の先生には、厳しいご指導を受けたことがあります。

織田幹雄先生は、少年時代、信じられないほどの内気な性格だったそうです。人前で歌を歌えばあがってしまい、歌えない。体操の成績も、5段階の「2」でした。

中学生の時も、体育の時間に走り高跳びをやったところ、人前であがってしまい、一番低いバーを跳ぶことすら出来ませんでした。それから1週間、同じように失敗した生徒たちと一緒に放課後に残って1時間ずつ練習をするように先生に命じられました。織田氏は毎日、練習に励みました。

そして、1週間後、また体育の時間に走り高跳びが行われました。織田氏は、今度は、練習の甲斐あって、一番高い段を跳ぶことが出来たのです。その姿を褒めたのが宇佐美という先生でした。

織田が立派に跳べたのは、命令を守って練習したからだ。こうして真面目にやっていれば、誰でも跳べるようになるのだ。」

織田氏はこれで自信をつけ、以後は、人前であることなしに、のびのびと走り高跳びにチャレンジするようになったそうです。

更に、中学3年生の時、野口という体育の先生から陸上競技の講習を受けるように命じられ、織田氏は走り高跳びの練習に専念します。最終日のテストでトップの成績をおさめ、野口先生は、

君には将来、立派な選手になる素質が十分にある。

と褒めてもらったそうです。これがさらに自信になって、織田氏は以後、陸上競技の道を歩むことになったのだそうです。

宇佐美先生と野口先生に出会わなかったら、織田氏がオリンピックで金メダルを取ることはなかったでしょう。褒められたことが自信になったと言われていました。

織田幹雄氏の信条は、「努力こそすべて」でした。努力すれば、道は開け、強くなれると信じて、常に一段高い目標を設定し、そのための努力をしてきました。試合の時、いつも織田氏のお母さんは、お宮参りをかかさず、お守りを渡すのでした。お母さんは、心配のあまり、生涯、織田氏の競技を見たことはなかったそうです。しかし、当の息子の織田氏は、お守りに感謝しつつ、試合前にはそのお守りをはずしていました。「神に頼むより、自分でやる以外にない。」と思っていたのだそうです。

織田氏の練習方法は、すべて経験に基づくものでした。三段跳びのために、長い階段を駆け上る練習を何度もされていました。今では、陸上競技=科学トレーニングで、階段を駆け上るような練習をあまりみません。それより、ダンベルやバーベルを使って筋力トレーニングをすることの方が多いようです。確かに科学トレーニングも重要でしょうが、経験に基づく練習も大きな成果をあげることもあります。

織田氏の走り幅跳びの指導の中で、「大空に向かって階段を駆け上がるように踏み切ってみなさい」というのがあります。大変いい表現だなあと思って、実際、階段を作ってみたらどうだろうということで、踏み切りの手前に階段を作り、児童・生徒に跳ばしてみました。そうしたら非常に感じがいいので、階段に更に改良を加え、小学生を対象に、階段を利用して指導したクラスと、そうでないクラスとで指導効果を比較実験してみました。すると、明らかに階段を利用して指導したクラスの方が、技術的にも情意的にも高い学習成果が得られました。織田幹雄氏の経験に基づく指導が実験的,科学的にも実証されたのです。早速、学会誌にまとめ投稿しようと思っていた矢先に、織田氏はこの世を去られました。今は、私たちの経験知としていますが、何かの形で織田氏の卓越した指導法を後世に伝えたいと思っています。

「強い者は美しい。」

一、陸上競技は楽しく

一、美しい動きを作れ

一、身体の動きが技術

一、練習で自信を作る

一、笑えば緊張が解ける

一、力だけでは勝てない

一、走るには脚を前へ

一、跳ぶには前脚で

一、投げるには回転の早さで

一、速さは低い姿勢から立つ

友情のメダル

これは、銀メダルと銅メダルが合わさったオリンピックのメダルです。

1936年(昭和11年)にドイツのベルリンで開かれたオリンピックでのことです。

棒高跳びの決勝は、夕方4時から始まりましたが、あいにくの雨と強い風でした。選手たちは大変な中を戦いました。最後に残ったのは、大江 季雄選手、西田 修平選手という2人の日本勢を含む4人でした。

アメリカのアール・メドウスが4メートル35を跳び、1位の金メダルが確定。大江、西田両選手の記録はともに4メートル25でしたが、「日本人同士で争うことはない」と2、3位決定戦を辞退しました。時間は夜の9時すぎ、ここまで5時間以上に渡る大接戦で、二人とも疲れ果てていたのです。日本側は、1回目でクリアした西田を2位、2回目でクリアした大江を3位と届け出て、これが公式記録として認められました。

ところが2位になった西田選手は、これを不服とし、表彰式で大江選手を2位の台に上げ、自らは3位の台に立ちました。2人とも同じ高さを跳んだのだから、2人とも2位でいいのではないかと思ったからです。

帰国後に銀メダルを持ち帰った大江選手の兄が間違いに気付き、西田選手の元にメダルを届けますが、悩んだ西田選手が知人の経営する宝石店で2つを切ってつなぎ合わせ、「友情のメダル」が誕生したのでした。

大江選手は、その翌年、4メートル35の日本記録を樹立し、ベルリンの勝者メドウスを破って優勝しましだ。しかし、1939年、陸軍に召集され、1941年、フィリピン・ルソン島での戦闘で戦死しました。

一方、西田選手は競技生活を終えた後も審判や監督職で活躍し、1959年、日本陸上競技連盟理事長に就任。1997年、87歳で死去されました。

タイトル オリンピック人生教訓
オリンピック選手から学ぶ人生教訓オリンピック選手から学ぶ人生教訓を4つ紹介します。 1992年のアルベールヒル冬季五輪フランス大会でトリプルアクセルを成功させ、銀メダルを獲得したフィギュアスケートの伊藤 みどり選手は、「みどりスマイル」は日本中を感動させました。伊藤選手は決して素質や環境に恵まれてはいませんでしたが、まさしく、努力の賜物でした。 1964年、東京オリンピックで、東洋の魔女を率い、日本女子バレーボールに金メダルをもたらした大松 博文氏の著書「おれについてこい」の中に『決するものは根性』という言葉でがあります。 1972年、ミュンヘンオリンピックで男子のバレーボールが金メダルを取りましたが、エースアカッター大古選手は、倒立で9メートルを歩き、4年前のメキシコオリンピック2位の悔しさを晴らしました。 2008年の北京オリンピック、女子ソフトボール日本チームの死闘は歴史に残ります。決勝進出をかけてのオーストラリア戦でサヨナラのホームベースを踏んだのは三科選手は、ホームベースに向って、手を合わせ、頭を下げたのです。この合掌は決勝につながり吉祥をもたらしたのでした。...
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パリオリンピックが今年7月26日~8月11日に開催されます。どんな感動話が生まれるか、楽しみですね。