皆さん、おはようございます。
少年老い易く、学成り難し
上に示した漢文は、中国南宋の儒学者で朱子学創始者、朱熹の残した「偶成」という有名な漢詩です。
「少年はあっという間に年をとり、学ぶべき事を学ばないうちに終わる。短い時間を無駄にしてはいけない。池の側で春の草が夢を見ているうちに、庭先の桐の葉は黄色く染まり既に秋だ。」という意味です。
彼は、宗代の儒教哲学を集大成した人物として知られています。従来重んぜられていた「五経」の真意を明らかにし、新たに「四書」を重視してこれを中心とする学問体系を打ち立てました。
また、「精神一到、何事か成らざらん。思う念力岩をも通す。」という有名な言葉も残しています。
私は、この詩に2つの思い出があります。
M先生から・・・「詩吟」
一つ目は、中学3年生の時の担任だったM先生という方に、これを詩吟で教えて頂き、毎日、帰りのホームルームの時間に、全員で一緒にうたっていたのです。
M先生は京都大学を卒業された方で、神戸市西区平野町にある曹洞宗宝珠寺の住職さんでもありました。英語だけでなく、詩吟や座禅なども取り入れ、ユニークな教育をしていただきました。そして、何より、こんな私を認めて、褒めてくれたのです。そのお陰で、私は中学時代に大きく「ヘンシン」することが出来、教師の道を目指すようになったのでした。その後、M先生ご夫妻には、私の結婚の時の仲人もしていただきました。
この詩吟をうたっていた中学3年生の時は、意味もあまりわかっていなかったのですが、今頃になって、この意味がよくわかるようになってきました。
I先生から・・・教育実習
もうひとつの思い出は、大学4年生の時に教育実習に行った大学の附属中学校の校庭に。これを刻んだ碑が立ててあったことです。
この時も、素晴らしい先生に出会いました。指導教官だったI先生という方でしたが、本当によく勉強される先生でした。
「もう社会人になったら、勉強なんてしなくていいだろう」と思っていた当時の私の頭をかち割られるほどの大きなショックでした。
一生勉強
今は、「生涯学習」という言葉もあり、一生勉強する必要が述べられていますが、それでも、若いうちに勉強したことは、その人の血となり肉となっており、なかなか忘れるものではありません。
前漢時代の史家、司馬遷も、
「白日空しく過ごすなかれ、青春は再び来たらず。」
と述べ、若い時代にしっかり勉強しなければならないことを説いています。
江戸時代の儒学者で、「昌平坂学問所」の主宰者であった佐藤 一斎は、その著書「言志四録」で、「三学戒」というのを唱えています。
少ニシテ学ババ、則チ壮ニシテ為ス有リ。
壮ニシテ学ババ、則チ老イテ衰エズ。
老イテ学ババ、則チ死シテ朽チズ。
「感動の数だけ幸せがある」
一生勉強を続けることで得られるものはなんでしょうか?
それは、感動です。
「感動」は人を変え、「笑い」は人を潤し、「夢」は人を豊かにします。
感動し、笑い、夢を抱くことができるのは、人間だけでしょう。
精神科医で随筆家の斎藤茂太氏は、
「感動こそがストレスに負けない最大の秘訣。そして、長生きのコツでもある。」
と述べています。
また、悪性新生物(癌)、心疾患、脳血管疾患の三大「成人病」を「生活習慣病」という言葉に提言された、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生は、
「いまの社会は『運動不足』より『感動不足』のほうが深刻」と述べておられます。
一日1回でも、感動的な場面に出会えるようにするには、いつも心に”、カメラ”を持っておいて、フォトジェニック(インスタ映え)にする場面を見つけようと心掛けることです。
外に出たら、ちょっと立ち止まって、空を眺めてごらんなさい。雲が何かの形をして、語りかけてくれるかもしれません。月や一番星を見つけることだったあるでしょう。道を歩けば、道端の草花や生き物に感動することがあるかもしれません。
また、人に会ったら、目の奥を見てみてはどうでしょうか。新しい何かの発見があるかもしれません。
そういう感動の積み重ねが、自分を幸せに変えていくのです。
感動のお話(5話)
「僕を支えた 母の言葉」 野口 嘉則
3歳の頃に父親を亡くし、母子家庭で育ったAさんのお話です。
Aさんは、あまり成績も良くなく、運動もできません。
それでもテストや運動会、そのほか何かことがある度に、母親は、
「大丈夫、おまえは素晴らしいんだから。」
というように言っていたそうです。
もちろん、Aさんは納得することができません。
それから、中学生になってから万引きや煙草などに手を出し始めたそうです。
とある事件で母親が学校に呼び出され、教頭先生から
「お子さんがこんなに“悪い子”になったのは家庭に原因があるのでは?」と言いました。
それを聞いた母親は、
「この子のしたことは間違っています。親の私にも責任があります。
ですが、この子は悪い子ではありません。」
と言いました。
このとき、初めて、母親が自分のことを本気で素晴らしいと思ってくれていることを知ったそうです。
この言葉を境に、Aさんは万引き・煙草から手を引きました。
それからもAさんは高校を中退したりしますが、いつもお母さんは、「大丈夫、おまえは素晴らしいんだから。」と言ってくれたのです。やがて仕事を始め、やっと親孝行をしようと思っていた時、お母さんは突然の事故で亡くなってしまいます。その時、お母さんは実の母でなかったことを知ります。
今、Aさんは35歳。小さな会社の社長になり、母親の行動をそのまま社員に返しているそうです。心の目で社員の素晴らしさを見直し、「きみは素晴らしい」と心を込めて言っているそうです。
レジ打ちの女性
その女性は、何をしても続かない子でした。田舎から東京の大学に来て、部活やサークルに入ったのは良いのですが、すぐにイヤになって次々と所属を変えていくような子だったのです。
そんな彼女にも、やがて就職の時期が来ました。最初、彼女はメーカー系の企業に就職します。ところが仕事が続きません。勤め始めて3ヶ月もしないうちに上司と衝突し、あっという間にやめてしまいました。
次に選んだ就職先は、物流の会社です。しかし、入ってみて、自分が予想していた仕事とは違うという理由で、やはり半年ほどでやめてしまいました。その次に入った会社は、医療事務の仕事でした。しかしそれも『やはりこの仕事じゃない』と言ってやめてしまいました。
そうしたことを繰り返しているうち、いつしか彼女の履歴書には、入社と退社の経歴がズラっと並ぶようになっていました。すると、そういう内容の履歴書では、正社員に雇ってくれる会社がなくなってきます。ついに、彼女はどこへ行っても正社員として採用してもらえなくなりました。だからといって、生活のためには働かないわけにはいきません。田舎の両親は早く帰って来いと言ってくれます。しかし負け犬のようで帰りたくありません。結局、彼女は派遣社員に登録しました。
ところが、その派遣も勤まりません。すぐに派遣先の社員とトラブルを起こし、イヤなことがあればその仕事をやめてしまうのです。彼女の履歴書には、やめた派遣先のリストが長々と追加されていました。
ある日のことです。新しい仕事先の紹介が届きました。それは、スーパーでレジを打つ仕事でした。ところが、勤めて1週間もすると、彼女はレジ打ちに飽きてきました。ある程度仕事に慣れてきて、『私はこんな簡 単な作業のためにいるのではない』と考えだしたのです。その時、今までさんざん転々としてきながら、我慢の続かない自分が彼女自身も嫌いになっていました。もっとがんばるか、それとも田舎に帰ろうか。とりあえず辞表だけ作って、決心をつけかねていました。
するとそこへ、お母さんから電話がかかってきました。また田舎に帰ってくるよう促され、これで迷いが吹っ切れました。彼女はアパートを引き払ったら、その足で辞表を出し、田舎に戻るつもりで部屋を片付け始めました。
長い東京生活で、荷物の量はかなりのものです。あれこれ段ボールに詰めていると、机の引き出しの奥から手帳が出てきました。小さい頃に書き綴った自分の大切な日記でした。無くなって探していたものでした。そして日記をパラパラとめくっているうち、彼女は、『私はピアニストになりたい』と書かれているページを発見しました。そう、彼女の小学校時代の夢です。『そうだ。あの頃私は、ピアニストになりたくて練習を頑張っていたっけ』と、彼女はあの時を思い出しました。彼女は心から夢を追い掛けていた自分を思い出し、日記を見つめたまま、本当に情けなくなりました。『あんなに希望に燃えていた自分が今はどうだろうか。なんて情けないんだろう。そして、また今の仕事から逃げようとしている…』
彼女は静かに日記を閉じ、泣きながらお母さんに電話したのです。『お母さん、私、もう少しここでがんばるね。』彼女は用意していた辞表を破り、翌日もあの単調なレジ打ちの仕事をするために、スーパーへ出勤していきました。
『2、3日でもいいから』と頑張っていた彼女に、ふとある考えが浮かびます。『私は昔、ピアノの練習中に何度も何度も弾き間違えたけど、繰り返しているうち、どのキーがどこにあるのか指が覚えていた。そうなったら鍵盤を見ずに、楽譜を見るだけで弾けるようになった』・・・彼女は昔を思い出し、心に決めたのです。『そうだ、私は私流にレジ打ちを極めてみよう』と。
そして数日のうちに、ものすごいスピードでレジが打てるようになったのです。すると不思議なことに、それまでレジのボタンだけ見ていた彼女が、今まで見もしなかったところへ目が行くようになりました。最初に目に映ったのはお客さんの様子でした。『あぁ、あのお客さん、昨日も来ていたな』『ちょうどこの時間になったら子ども連れで来るんだ』とか、いろいろなことが見えるようになったのです。
そんなある日、いつも期限切れ間近の安いものばかり買うおばあちゃんが、5,000円もする尾頭付きの立派な鯛をカゴに入れてレジへ持ってきたのです。彼女はビックリして、思わずおばあちゃんに話しかけました。『今日は何かいいことがあったんですか?』おばあちゃんは彼女に、にっこりと顔を向けて言いました。『孫がね、水泳の賞を取ったんだよ。今日はそのお祝いなんだよ。いいだろう、この鯛。』『いいですね。おめでとうございます。』.うれしくなった彼女の口から、自然な言葉が飛び出しました。お客さんとコミュニケーションをとることが楽しくなったのは、これがきっかけでした。
いつしか彼女は、レジに来るお客さんの顔をすっかり覚えてしまい、名前まで一致するようになりました。『〇〇さん、今日はこのチョコレートですか。でも今日はあちらにもっと安いチョコレートがでてますよ。』『今日はマグロよりカツオの方がいいわよ。』などと言ってあげるようになりました。レジに並んでいたお客さんも応えます。『いいこと言ってくれたわ。今から替えてくるわ。』そう言ってコミュニケーションをとり始めたのです。彼女はだんだんその仕事が楽しくなってきました。
そんなある日のことです。『今日はすごく忙しい。』と思いながら、彼女はいつものようにお客さんとの会話を楽しみつつレジを打っていました。すると店内放送が響きました。
『本日は大変に混みあいまして申し訳ございません。どうぞ、空いてるレジにおまわりください。』
ところが、わずかな間をおいて、また放送が入ります。
『本日は混みあいまして大変申し訳ありません。重ねて申し上げておりますが、どうぞ空いているレジのほうへお回りください。』
そして、三回目、同じ放送が聞こえてきた時に、はじめて彼女はおかしいと気づきました。そして、ふと周りを見渡して驚きました。どうしたことか5つのレジが全部空いているのに、お客さんは自分のレジにしか並んでいなかったのです。
店長があわてて駆け寄ってきます。そしてお客さんに、『どうぞ空いているあちらのレジへお回りください。』と言ったその時です。お客さんは店長の手を振りほどいてこう言いました。『放っといてちょうだい。私はここへ買い物に来てるんじゃない。あの人としゃべりに来てるんだ。だからこのレジじゃないとイヤなんだ。』
その瞬間、彼女はワッと泣き崩れました。その姿を見て、別のお客さんが店長に言いました。『そうそう。私たちはこの人と話をするのが楽しみで来てるんだよ。今日の特売は、ほかのスーパーでもやってるよ。だけど私はこのお姉さんと話をするためにここへ来てるんだ。だから、このレジに並ばせておくれよ。』彼女はポロポロと泣き崩れたまま、レジを打つことが出来ませんでした。はじめて、仕事というのはこれほど素晴らしいものなのだと気づいたのです。そうです。すでに彼女は昔の自分ではなくなっていたのです。
その後、彼女はレジの主任になって、新人教育に携わったそうです。
「母の席に座ってください。」 「縁を生かす」(心に響く小さな5つの物語より)
その先生が5年生の担任になった時、1人、服装が不潔でだらしがなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録に先生は、少年の悪いところばかり記入するようになっていた。
ある時、少年の1年生からの記録が目に止まった。
「朗らかで、友達が好きで人にも親切。勉強もよくできて将来が楽しみ。」とある。
「間違いだ!他の子の記録に違いない!」先生はそう思った。
2年生になると
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」
と書かれていた。
3年生では
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする。」
3年生の後半では
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」
とあり、
4年生になると
「父は生きる希望を失い、アルコール依存症となり子どもに暴力を振るう。」
先生の胸に痛みが走った。
ダメだと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に現れてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。
放課後、先生は少年に声をかけた。
「先生は夕方まで教室で仕事をするからあなたも勉強していかない?
わからないところは教えてあげるから。」
少年は初めて笑顔を見せた。
それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。
授業で少年が初めて手を上げた時、先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。
クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押し付けてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。
亡くなったおかあさんが使っていたものに違いない。
先生はその1滴を付け、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は気がつくと飛んできて、
先生の胸に顔を埋めて叫んだ。
「ああ!お母さんの匂い! 今日は素敵なクリスマスだ!」
6年生では少年の担任ではなくなった。
卒業の時、先生に少年から1枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で1番素晴らしい先生でした。」
それから6年。またカードが届いた。
「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担任をしてもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます。」
10年を経て、またカードが届いた。
そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた経験があるから、患者の痛みのわかる医者になる。と記され、こう締めくくられていた。
「僕は5年生だった時の先生を思い出します。あのままダメになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって、最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です。」
そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。
「母の席に座ってください」と1行書き添えられていた。
たった1年の担任の先生とのご縁。その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、それからの人生を生きた。ここにこの少年の素晴らしさがある。
人は誰でも無数の縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。
一粒のぶどう
東京都中央区明石町に米国聖公会の宣教師ルドルフ・トイスラー博士によって1901年に創設され、以来100年以上の長きに渡り、キリスト教精神の下に患者さん中心の診療と看護を実践してきた聖路加国際病院に入院されていた患者さんと高島屋の店員さんの実話です。
不治の病の女の子は、1歳の時から入退院を繰り返して、5歳になりました。しかし、様々な治療の甲斐もなく、ついにターミナルケアに入りました。もはや施す術もなく、安らかに死を迎えさせる終末看護、それがターミナルケアです。
冬になり、お医者さんがその子のお父さんに言いました。
「もう、なんでも好きなものを食べさせてやってください。」
お父さんはその子に、何が食べたいか、聞きました。
「お父さん、ぶどうが食べたいよ。」と、女の子が小さな声で言いました。
季節は冬、ぶどうはどこにも売っていません。でも、この子の最後の小さな望みを叶えてやりたい。死を目前に控えたささやかな望みを、なんとか、なんとかして叶えてやりたい。
お父さんは東京中のお店を探しました。
思いつく限りのお店、あのお店も、このお店も、、、、、、足を棒にして、探し回りました。
でも、どこのフルーツ売場にも置いていません。
最後に、あるデパートのフルーツ売場を訪ねました。
「あの…、ぶどうは置いていませんか?」
祈る気持ちで尋ねました。
「はい、ございます」
信じられない思いで、その人のあとについて行きました。
「こちらです」と案内されたその売場には、きれいに箱詰めされた立派な巨峰がありました。
しかし、お父さんは立ちすくんでしまいました。
なぜなら、その箱には3万円という値札が付いていたのです。
入退院の繰り返しで、そんなお金はもうありません。
悩みに悩んだ末、必死の思いでお父さんはその係の人に頼みました。
「一粒でもいい、二粒でもいい、分けてもらうわけにはいきませんか?」
事情を聞いたその店員は、黙ってその巨峰を箱から取り出し、数粒のぶどうをもぎ、小さな箱に入れ、きれいに包装して差し出しました。
「どうぞ、2千円でございます。」
震える手でそのぶどうを受け取ったお父さんは、病院へ飛んで帰りました。
「ほら、おまえの食べたかったぶどうだよ。」
女の子は、痩せた手で一粒のぶどうを口に入れました。
「お父さん、おいしいねえ。ほんとにおいしいよ。」
そして間もなく、静かに息を引き取りました。
日本とトルコ ~1世紀を経て語り継がれてきた感謝の思い~
1890年9月16日、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本町沖で遭難し、587名が死亡または行方不明になる大惨事となりました。
生存者たちは数十メートルの断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせ、灯台守の通報を受けた大島村の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たりました。食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は卵やサツマイモ、非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの救護に努め、この結果、69名が救出され生還することができたのです。69名の生存者は、神戸で治療を受けた後、「比叡」「金剛」の2隻の軍艦により帰国の途につきました。その時の写真が今でも残っています。
ちなみに、エルトゥールル号遭難4年前、同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号遭難事件が起こっています。船長ドレイク以下、外国人船員は全員がボートで脱出、難破して沈没する船を放置し、乗り合わせていた日本人乗客25名は見捨てられ、溺死するという無残な結末となりました。にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪判決を下しました。まさに不平等条約の非情さを天下に知らしめた事件になったのです。
エルトゥールル号の遭難事件が起こった時、大島の村民たちもノルマントン号事件に見られた残酷な仕打ちは知っていたでしょう。それでも、村民たちは、「当然のこと」として、異国の人々の救助に献身したのでした。
そして、時が流れて、1985年3月17日、イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領が、「今から48時間後にイランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と世界に向けて発信しました。
世界各国は、自国の救援機を出して、救出に向かいました。しかし、日本政府は、素早い決定ができませんでした。自衛隊機の出動は、海外への派兵は憲法違反にあたると、当時、日本の最大野党であった社会党が猛反対したのです。また、民間では、政府系航空会社である日本航空社内で、共産党や社会党系の乗員組合が、危険な地域への運行の拒否を宣言しました。
そこに、2機の飛行機が到着しました。トルコ航空の飛行機でした、そして、日本人215名全員を乗せ、タイムリミットの1時間15分前にイランのテヘランを飛び立ち、全員が無事、帰国することができたのでした。
後日、トルコへの救援依頼は、ふたつのルートでされていたことが判明しました。ひとつは伊藤忠商事のイスタンブール支店長だった森永氏がトルコのオザル首相に依頼したルート。もうひとつは、イランの野村大使が駐イラントルコ大使のビルセル氏に依頼したルート。ふたつとも即快諾され、トルコ航空に依頼がなされました。
しかし、戦火に救援機を飛ばすのは、命がけの仕事です。いくらトルコ政府がトルコ航空に依頼しても、断る理由はいくらでもあったでしょう。ところが、トルコ航空ではすぐさまミーティングが開かれ、特別機への志願者を募りました。これに、機長はじめ多数のスタッフが名乗りを上げたそうです。
当時、イランにいたトルコ人は6,000人ともいわれ、救出を望んでいました。しかし、救援機が日本人を優先的に乗せたことに対して特に非難は出ませんでした。6,000人のトルコ人たちは、陸路を数日かけて脱出したのです。
その後、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は、産経新聞で次のように語っています。
「エルトゥールル号の事故に際して、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空は飛んだのです。」
また、なぜ2機だったのか。200人乗り1機では乗り切れないだけではありませんでした。特別機2機による日本人の救出は、帝国海軍「比叡」と「金剛」の2隻に対するお礼であったと説明されています。
テヘラン脱出は、救援に奔走した二人の日本人の力だけでなく、一世紀にも渡って語り継がれてきたトルコのこの深い「思い」があったからこそ、可能になったのでした。
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