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教師として稀有な体験(3選)

タイトル 稀有体験
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中学校の教師を38年間勤めました。本当に様々な出来事に遭遇しました。今でも口にできないような事件や事故もありますが、もう時効だと思うので、あまり一般の教師では経験しないだろうと思われる稀有な体験話を3つしたいと思います。

S子は、私が教師になって、中学校2年生と3年生で連続して担任をした生徒でした。考えられる非行のすべてをやってきた生徒で、中学2年生の時には家出をし、2か月ほど行方が分かりませんでした。その後、軟禁状態でかくまっていた犯人から脅迫文が学校に届いたことから、犯人を逮捕し、戻ってきました。犯人逮捕の時には、脅迫状に書かれた通り、岡山の駅で待ち合わせをして犯人と会い、そこを張り込んでいた刑事さんに逮捕してもらうという、ドラマのような経験をしました。

犯人逮捕後、S子は身柄を確保されて、すぐに鑑別所に入り、その後、保護観察処分を受けて学校に戻ってきました。

そして、高校に行くと言い出しましたが、私は「3年間も続くはずがない」と反対しました。なにより、2年半、ほとんど中学校の勉強もしていないのに、学力的に無理だと思っていたのです。

ところが、S子は勉強を始め、たった1か月ほど勉強しただけで平均70点を取るなどして、「最低1年は高校生活を続ける」という私との約束で、私立の女子高校を受験し、みごと合格してしまったのです。

しかし、きっちり1年たってから高校を辞め(首になったのかも?)、水商売の道に入りました。

それから3年後、S子が電話をかけてきました。

アメリカに留学をしたいと考えているけれど、成績証明書がいる。高校を中退しているので、中学校の成績が欲しい」というのです。

待て待て。S子の中学校の成績なんてオール1だったぞ。高校受験の時は事前試験を受けさせて学力があると証明してもらって通ったのだから…。ダメだろうと思っていたのですが、とりあえず、その中学校の教頭先生に相談することにしました。

すると、事情を聞いた教頭先生は、「よくわかった。高校合格する力もあったのだから、オール3の成績で出しておく」と、今では公文章偽造罪になるかもしれないようなことをやってくれたのです。そのお蔭で、S子は、無事アメリカに旅立つことになりました。

それから3年、S子が帰国しました。当然、英語はペラペラ。しかし、再就職は、お店のママでした。

その後も、3年おきに電話がかかってきては、「子どもを産んだ」「結婚した」「離婚した」「双子の子を産んだ」「再婚した」「また離婚した」という具合に、人生の節目の度に連絡をくれています。

その間、子育ての相談にも何回かのりましたが、いつも、「先生、先生」と言って、連絡をくれるのです。

今も、私にとって、S子は宝物の生徒です。

12月のことでした。夜中の11時頃に私の携帯がなりました。

当時、私は中学3年生の担任をしていたのですが、何事かと思って電話に出ると、生徒のK夫からでした。

「先生、助けて。彼女がお腹から血が出て苦しんでいる。」

「彼女?」

「隣の学校を卒業した1つ上の女の子や。」

「どこからの出血?」

「妊娠してたんや。」

「まずは、救急車やろ。」

救急車を呼び、K夫の家に駆けつけました。その後、病院の搬送に付き添い、無事、女児が出産ということになって、私は朝方に帰宅しました。

そもそも、K夫は、中学2年(14歳)の時に強盗傷害事件を起こし、その他の非行もあって、その年の4月、中学3年生になってすぐ少年審判を受けていました。それまで、少年審判というのは非公開で弁護士などはつかなかったのですが、K夫の両親は金を出すことが親の愛情と思っていたようで、300万円も支払って弁護士をたて、審判に臨んだのです。

審判を下したのは、1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件で「酒鬼薔薇聖斗」を名乗った少年Aを裁いたI裁判官でした。I裁判官は、少年Aを医療少年院送致の保護処分としましたが、その際、「私は、将来、少年Aが改心し、被害者になられた父母と共に地域の清掃活動にいそしんでいる姿を想像している」などと述べていました。K夫に対する処分は、当然、教護院か少年院への送致だろうと思っていたのですが、なんと、そのI裁判官の審判は「試験監察処分」でした。

そうして、K夫は4月~5月の1か月、普通に学校に戻ってきたのです。ところが、その1か月も問題行動は治まらず、結局1か月後の再審で保護観察処分となり、祖父母の家を頼って一時、大阪に転校となったのでした。

その後、2学期の半ばになって保護観察のまま、学校に戻ってきたのですが、彼女との子は、試験監察処分で戻ってきたたった1か月の間にできた子だったということです。

あの時、I裁判官が教護院か少年院への送致をしていたら、15歳で父親になることはなかっただろうと思います。

K夫は、中学校卒業とともに働くと言って、塗装の仕事に就きましたが、結局、半年でやめ、生まれた子を認知することもなく、行方不明となってしまいました。

ところが、不思議な縁で、その時の子が、また、私の別の勤務校に入学してきたのです。私は当時、教頭になっていたので、直接、授業をもつことや担任をすることはありませんでした。生徒資料には、「父親とは若くして離婚」と書いていましたが、実際は結婚もしていなかったでしょう。父親とそっくりのこの子が道を間違わずに成長することを祈りながら見守ることしかできませんでした。

1986年(昭和61年)1月23日、女子バレーボール日本リーグ、首位を走る日立と打倒日立に燃えるダイエーの試合が松江市総合体育館で開催されました。ダイエーのエースアタッカーは、ロサンゼルスオリンピック(1984年)の銀メダリスト、アメリカのフローラ・ジーン・ハイマン選手でした。身長196cmもある長身の黒人選手で、ダイエーにバレーボールチームが発足した時から、リタ・クロケット選手とともに来日し、活躍していました。性格も明るく、誰からも好かれるタイプの選手で、その当時、私は何回か試合の審判に行っていましたが、きさくに声をかけてくれていました。

試合の第3セット、ベンチに一時退いたハイマン選手は、崩れるように意識を失い、倒れました。試合は中断されることなく、ハイマン選手はタンカーで医務室に運ばれましたが、試合結果(フルセットでダイエーが勝ち、日立の89連勝を阻んだ)を知ることもなく、亡くなってしまったのです。

この時の様子は全米にも流され、日本は大変な非難を浴びました。「なぜ、日本人は心肺蘇生をしないのか」、目の前で人が突然、倒れた時、すぐさま救急車を呼び、心肺蘇生を行うという、アメリカでは当たり前のことが日本ではなされていなかったのです。

アメリカではすでに30年も前からハイスクールの体育の授業で心肺蘇生法を教えていました。このことにショックを受けられ、当時アメリカに留学されていた河村 剛史先生が帰国後、高砂市民病院におられた松本 學先生とともに、兵庫県において、「命の教育」の重要性を伝えるために心肺蘇生法の普及を開始されました。私はその第1期生として、心肺蘇生を学び、それ以降、水泳指導員であることもあって、毎年講習を受けてきました。

2002年(平成14年)11月21日に高円宮さまが心臓突然死をなされ、その後、福知山マラソンや名古屋マラソンで事故が相次いだことから、心臓突然死の原因である心室細動に対して自動体外式除細動器(AED:Automated External Defibrillator)を使用した早期除細動を行うことが必要であるとの社会的認識が高まりました。

2007年(平成19年)11月21日、高円宮さまが亡くなられた同じ日、私は中学校で体育の授業をしていました。快晴の中、陸上競技の授業を男女共習のグループで行っていました。生徒たちは、グランドいっぱいに広がり、短距離走を測ったり、走り幅跳びや走り高跳びをしたりしていました。そして、男子数人が50mを走ったのを見届けた後、一度、笛を吹き、生徒たちを集合させました。ところが、50mを走ったばかりのT君が、集合せず、座り込んでいます。「おーい、集合だぞ。」と声をかけると、そのまま寝転がってしまったのです。

慌ててとんでいくと、全く意識がありませんでした。声をかけても反応もなく、脈をとっても脈を感じません。すぐに、相棒の体育教師にAEDを持ってくるように指示し、心肺蘇生を開始しました。

これまで人形相手に、何度も心肺蘇生を練習してきましたが、生身の人間にするのは初めての経験です。心臓を圧迫するたびに、死人のように土色の顔色をしたT君の頬に赤みが出ます。「心肺マッサージは絶対やめられない。」相棒の体育教師が職員室からAEDを持ってくるまでの長かったこと。時間にして3分程度だったでしょうが、私には20分くらいに感じました。

すぐにAED を装着し、電気ショックを流しました。

しかし、何の反応もありません。

「死んだか?」と思いました。

それから心肺蘇生を続けたまま、再度AEDをかけたところ、T君は急に泣き出し、意識を戻してくれました。

「ああ、生き返った。」・・・あの時の感動は忘れられません。まるで、子どもが生まれ出たような感動でした。

その後、救急車がグランドに到着し、T君とともに病院に行って診察を受けました。T君は男子バレーボール部に所属し、エースアタッカーとして活躍してきました。それまで特に健康面に問題はなく、それまで何の検診にもひっかかったこともなかったのですが、T君の心臓には先天的な奇形が見つかったのでした。

T君は3か月ほど入院し、除細動器を体に埋め込んで戻ってきました。もう大丈夫だというので、体育の授業にも参加しました。ただ、近くで携帯を使ってはいけないというので、本人からも携帯電話を取り上げました。

そして、3年生最後の体育の授業でした。生徒たちを座らせ、「3年間よく頑張ったね」という話をしていた時、それまで少し下を向いて話を聞いていたT君が突然、顔を上げるのです。よっぽど、私の話に感動してくれたのかと思いきや、

「先生、今、除細動器が動きました。」

・・・「おいおい、それって、今、心臓が止まっていたということ?」

すぐに救急車で搬送しました。幸い、何もなく戻ってきましたが、その後も、何度か、T君の心臓は停止し、除細動器の作動によって、助かっているということです。

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