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フェアプレイ・・・オリンピック、サッカー、日本スポーツ協会にみるsportsman精神とは?

タイトル フェアプレイ
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スポーツマン精神とは・・・

皆さん、おはようございます。

スポーツ大会の開会式の選手宣誓では、必ずといっていいほど、「スポーツマン精神にのっとり・・・」と言われますが、「スポーツマン精神」とは、いったいどんなことをいうのでしょう?

“sportsman”を英英辞典で調べると、“good loser”“good fellow”と記されています。すなわち、「良き敗者」「良き仲間」ということです。

また、“sport”には、信頼を示す意味があり、“He is a good sport.”といえば、「彼は信頼できる人物だ。」という訳になります。もっとも、“sport”には「競馬賭博者などのばくち打ち」や「派手好みのきざな人」という意味もあるのですが、やはり、“sportman”という言葉は、勝っても驕らず、負けでも怯えずに堂々と相手を称えることのできる人,信頼できる人という意味で使いたいですね。

ところで、オリンピックの創始者であるフランスのピエール・ド・クーベルタンは、1894年、近代オリンピックの復興を提唱してIOCを設立し、オリンピックの理念(オリンピズム)を述べています。それは、端的にいうと、「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍など様々な差異を超え、友情・連帯感・フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する。」ということです。これもスポーツマン精神と呼べるでしょう。

1896年にアテネで復興された近代オリンピックは、2度の世界大戦による中断や東西冷戦によるボイコット問題など、様々な時代的・社会的・政治的な影響を受け、そのたびに、あるべき姿が問い正されてきました。しかしながら、今日なおオリンピックが継続・発展しているのは、クーベルタンの提唱したオリンピズムに多くの人が共感し、スポーツマン精神を望んでいるからでしょう。

また、オリンピックの意義を表現する言葉として知られる「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」という言葉は、1908年のロンドン大会の開催中の日曜日、礼拝のためにSaint Paul大寺院に集まった選手たちを前に、主教が述べた言葉だったそうです。当時、イギリスはアメリカと険悪なムードにあり、両国のいがみ合いがオリンピックに現れていたそうです。クーベルタンもこの主教の言葉に感動し、イギリス政府主催の晩餐会で、「人生にとって大切なことは成功することではなく、努力すること」という趣旨のスピーチを行っています。以後、オリンピック出場に至るまでの努力や世界平和の尊さを説く言葉として、オリンピックの意義を表現する名句になっているのです。

「体育」と「スポーツ」

今年(2023年)は10月9日が「スポーツの日」でしたが、本来は10月10日が「体育の日」でした。1964年10月10日に行われた東京オリンピック開催日を記念して、1966年6月公布・施行の祝日法によって制定されました。1998年10月に祝日法が改正され、2000年から10月の第2月曜日に変更されています。「スポーツに親しみ、健康な心身を培う」日です。

ところで、「体育」と「スポーツ」の違いを考えたことがありますか? 

普段、混合されて使われていますが、「体育」は「からだそだて」とも読むことができることから、教育による身体活動であり、「スポーツ」は、「スポーティフル」(日常生活から解放された楽しみ・気晴らし)という語源から想像される運動というように、少しニュアンスが違うと思います。

ちなみに、1968年、メキシコオリンピック・スポーツ科学会議で出されたスポーツ宣言では、スポーとツは「遊戯の性格を持ち、自己または他者との競争、あるいは自然の障害との対決を含む運動」と定義され、「フェアプレイのないところには、真のスポーツは存在しない。」と宣言されています。

日本スポーツ協会では、「フェアプレイで日本を元気に ―あくしゅ、あいさつ、ありがとう― 」をキャンペーンにして、「フェアプレイ」が根付く社会の形成に取り組んでいます。

フェアプレイは、決してスポーツをする時だけでなく、あらゆる人間の活動に浸透しなければならないはずです。まして、教育の世界で、アンフェアなことがまかり通ることは許されないでしょう。

「サッカー」にみるFair精神 

『姑息』なプレーとは・・・

サッカーはイギリスで生まれたスポーツで、現在ポピュラーな球技の中で、最も古いスポーツとされています。サッカーからラグビーが生れましたし、サッカーがアメリカに渡ってバスケットボール,バレーボールへと発展していったのです。

バレーボールをこよなく愛する私にとっても、サッカーは大変、興味あるスポーツのひとつです。何故なら、バレーボールもサッカーも、チームでボールを運び、相手コートにシュート(スパイク)するというゴールゲットのスポーツであり、その戦術や作戦は基本的に同じだからです。(従って、私は、Jリーグの監督も出来ると思っています!?)

さて、サッカーが球技として生まれた頃は、たった14条のルールしかありませんでした。なぜなら、サッカーはイギリス紳士のスポーツであり、たくさんの細かいルールなんかを作らなくても、フェアにプレーするのが当たり前とされていたからです。

ところで、その14条のルールをみてみますと、中に、オフサイドのルールが書いてあります。オフサイドというのは、相手キーパーを除くディフェンスの選手よりもゴールに近い位置にいて、ボールを受け取ることをいいます。つまり、相手キーパーと1対1の状況にあっては、シュートする側が有利になることから、最初からボールを追わずにゴール前にいるような行為をUnfairなプレーとして反則としたのです。せっかくゴールが決まったのに、今のはオフサイドだったといってノーゴールになるケースがありますが、ちょっと趣覚めの感がしますね。

しかし、紳士のスポーツ=サッカーでは、オフサイドプレーはUnfairなプレーとして、大変嫌われたようです。

日本にこのルールが紹介された時、Unfairというのを「姑息」と訳しています。すなわち、オフサイドは「姑息」なプレーというわけです。

「姑」は「婦人」,「息」は「小児」という意味があり、「姑息の謀りごと」というように用いられることもありますが、ここでは、「姑」は「しばらく」,「息」は「やすむ」という意味に捉えられ、「一時しのぎをする」ということでしょう。

孔子の弟子であった曾子が病床にあって、ベッドの敷物を息子に取り替えるように言ったところ、今は重態で動かすことができないからと言って断わられました。そこで、曾子は、「君子が人を愛するや、徳を以てする。細人(心の狭い人)が人を愛するや、姑息を以てする。」と言って、息子をたしなめたといいます。すなわち、一時しのぎの感情は、本当の愛ではないということでしょう。

単にサッカーをする時だけでなく、人に対して姑息な振る舞い(プレー)をするというのは、その人に愛情をもっていないからです。常にFairでありたいと願います。

「ぺナルティーキック」はいらない

サッカーはイギリスで生まれた時、14条のルールしかありませんでした。それは、サッカーはイギリス紳士のスポーツであり、フェアプレーに徹するのが当然とされていたからですが、サッカーが世界に広まると、アンフェアなプレーが多くなり、細かいルールが作られるようになりました。

1863年、世界フットボール協会ができ、世界統一ルールが決まられました。その中に、ゴールエリア内でシュート態勢に入った選手に対して反則行為があった時、ペナルティーキックを与えるというルールが採用されています。

しかし、イギリスでは、名門のオックスフォード大学とケンブリッヂ大学の定期戦において、世界統一ルールが決められてからも、長い間、このペナルティーキックというルールを採用しませんでした。

その理由は、

私たちは紳士であり、ゴールエリア内外を問わず、シュート態勢に入ったプレーヤーに対して、反則を犯してまで邪魔をするようなFairでないプレーは絶対にしない。従って、ペナルティーキックなどというルールは必要がない。

というものでした。

イギリスでは、バスの中で5歳くらいの幼児でも、「僕は紳士だ。」と言って、椅子に座らずに頑張って立っているのだそうです。そういう人たちがたくさんいるところでは、バスの中でお年寄りや体の不自由な人に席を譲りましょうと書いたり、シルバーシートを設けたりするなど、細かい規則やきまりを決めなくても済むでしょう。

私たちは、目先の勝敗にこだわると、Fair精神を失いがちです。結局、そうすることによって、細かい規則やきまりを決めざるを得ないようになり、自分たちの生活を息苦しくしてしまっているのです。

フェアプレイ(by 日本スポーツ協会)

フェアプレイには2つの意味があります。

ひとつは、「行動としてのフェアプレイ」・・・ルールを守る、審判や対戦相手を尊重する、全力を尽くして戦い、勝っても驕らず、負けてもふてくされたりしないことなど、実際の行動としてのフェアプレイ(フェアなプレイ)。

もうひとつは、「フェアプレイ精神」・・・自分の考えや行動について、善し悪しを自分の意志で決められること。自分自身の心に問いかけた時、恥ずかしくない判断が出来る心(魂)のこと。

「行動としてのフェアプレイ」は、定められた決まりの中で、誰から見ても善いと思われる行為になります。一方、「フェアプレイ精神」は自分自身の心のあり方によるものですから、他人からは見ることができません。しかし、行動と精神は切り離せないものですから、この2つのフェアプレイは、スポーツを真に楽しむ上で欠かせないものなのです。

スポーツは、なぜ楽しいのか。

スポーツは、なぜ気持いいのか。

スポーツは、なぜ夢中にさせるのか。

スポーツは、なぜ感動を呼ぶのか。

ただ勝利することだけが成功であり、喜びであるなら、人々は、これほどまでスポーツを必要としないはず。

強くなること、うまくなることだけが目的であるなら、人々はこれほどまでスポーツに打ち込んだりしないはず。

スポーツは一人ではできない。いっしょに切磋琢磨する仲間がいる。同じ目標に向かってしのぎを削り合う対戦相手がいる。そして、審判や応援してくれる人達、さらには環境を整えてくれる人達も欠かせない存在だ。

スポーツをする、試合をする。

そこには、自分自身の努力がある。チームメイトと築いた信頼がある。

対戦相手への敬意があり、支えてくれる人達への感謝がある。

これらは人格をつくることにおいて、なくてはならないとても大切なものだ。

そして、これらこそが、フェアプレイの真ん中にあるものだと、私たちは考える。

スポーツが楽しく、感動を呼び、気持ちよく夢中にさせるのも、フェアプレイの気持ちがあるからこそだ。・・・

最後に、「スポーツを楽しくするために必要な要素」と「フェアプレイ7カ条」を紹介しておきましょう。

スポーツを楽しくするために必要な要素

①ルール:法的安全性の確保、正義の実現、面白さの保障

②対戦相手:勝利することをさらに難しくする。

      (自己または他者との競争、あるいは自然の障害との対決)

③勝負へのこだわり:徹底して勝負にこだわる。

      (ただし、勝負の結果にこだわらない。)

④審判:ゲームが公平に行われているか客観的に判断

フェアプレイ7カ条

1.約束を守ろう。

2.感謝しよう。

3.全力をつくそう。

4.挑戦しよう。

5.仲間を信じよう。

6.思いやりを持とう。

7.たのしもう。

タイトル プライド教育
プライド教育映画監督・脚本家の村上 龍氏が、「絶望した時に発狂から救ってくれるのは、友人でもカウンセラーでもなく、『プライド』である」と述べています。 「プライド」とは、『思考力』と『愛』の要素の融合体であると考えられます。自尊心を持っていない人は、自分を粗末にし、結局、自分を不自由にしてしまうでしょう。 ピタゴラスは、「万事に先立って汝自身を尊敬せよ」という言葉を残しています。人を大切に思う心は、自分自身を大切にする心から育つものです。自分を大切にできない人が、他人に対して優しく接したり、温かい言葉をかけたりすることは出来ないでしょう。 どんな境遇にあっても、不平・不満・文句を言わず、プライド(自尊心)を持って生きることが大切だと思います。 ...
タイトル きまり ルール マナー モラル
ルール、マナー、モラルについて考える・・・「なぜ、きまりは必要なのか?」スポーツのルールは、快の追及にあります。学校のきまりもスポーツのルールと同じで、学校生活をみんなが楽しく、快適に過ごせるために、考え出されてきたものです。より楽しく快適に生活出来るように改変していく姿勢をもつことが大切です。合理主義のアメリカ派よりフェアプレイを大切にするイングランド派の考えが学校を救うでしょう。...

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