皆さん、おはようございます。
中国の「書経」の中に、
「功の崇きはこれ志、業の広きはこれ勤」という言葉があります。
立派な仕事をするには目標が必要であり、大きな事業をなすには持続的な努力が必要であるという意味です。
「学ぶに遅き時はなし」Never too late to learn.というのは、イギリスのことわざです。
今回は、高齢になってからも学び、成功をおさめた4人の偉人を紹介しましょう。
その4人とは、
・佐藤 一斎(1772⁻1859)
42歳から「言志四録」を著し、最後に「言志耋録」を記したのは82歳でした。
・ハインリヒ・シュリーマン(1822~1890)
49歳の時にトロイヤ遺跡の発掘に成功
・歌川 広重(1797-1858)
40歳を過ぎてから旅に出て、62歳で亡くなるまで絵の修業を積みました。
・伊能 忠敬(1745⁻1818)
50歳になってから天文学を学び、56歳から日本最初の実地測量による日本地図を作成。その後、73歳で亡くなるまで17年をかけて日本全国を測量しました。
「春風以って人に接し、秋霜を以って自ら粛む。」
江戸時代の儒学者、佐藤一斎の言葉です。他人には春風のもつ暖かさで接し、自分には秋の霜のような冷厳さで反省して、自分の至らぬところを知るという意味ですが、人間関係処理の究極の言葉ではないでしょうか。現代では、「人には優しく、自分には厳しく。」というところでしょう。大変素晴らしい言葉だと思います。
その佐藤一斎がこんな言葉を残しています。
「若くして学べば、すなわち壮にして成すところにあり。
壮にして学べば、すなわち老いて衰えず。
老いて学べば、すなわち死して朽ちず。」
佐藤一斎は、幕府の直轄機関であった「昌平坂学問所」(湯島聖堂)の主宰者でしたが、その昌平坂学問所の儒官となったのは、なんと70歳の時でした。また、「この人物が居なかったら、日本の夜明けは無かったかも知れない」と言われるほどの人物でした。
佐藤一斎の著書「言志四録」は、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」の全四巻を総称したものであり、内容は学問、思想、人生観など多義にわたり、修養処世の心得が1133条にわたって書かれた随想録です。
「言志録」は、佐藤一斎が42歳~53歳までの約11年間にわたって書かれたもので、246条からなり、1830年に刊行されています。「言志後録」は、57歳~67歳までの約10年にわたって書かれており、67歳~78歳までの11年間にわたって書かれた「言志晩録」と一緒に、1850年に刊行されました。そして、驚くことに、「言志耋録」は彼が80歳~82歳までの3年間にわたって書かれ、1853年に刊行されています。平均年齢50歳前後のこの時代にあって、佐藤一斎は大変な高齢で、「言志四録」を完成させたということがわかるでしょう。
「トロイの木馬」
ハインリヒ・シュリーマンは、ドイツの貧しい牧師の子として生まれました。子どもの頃、父親から一冊の本「イーリアス」をもらい、トロイヤ伝説に魅了されます。
その後、非常な苦労を重ねて巨富を築き、40歳を過ぎてから、トロイヤ遺跡発掘という子どもの頃からの夢に挑戦しました。そして、1871年、49歳の時に、彼はトロイヤ遺跡の発掘に成功したのでした。
子どもの頃に抱いた遺跡発掘の目標を持ち続け、独学で英語のみならず、フランス語,オランダ語,スペイン語,イタリア語,ポルトガル語を学んだそうです。その努力は大変なものだったでしょう。
「トロイの木馬」
難攻不落のトロイア城塞を破るために、切り札として考え出されたのが、「トロイの木馬」です。ギリシア軍の少数精鋭が木馬の胴体部分に乗り込んで潜み、トロイアを滅ぼしたと言われています。
なお、現在、「トロイの木馬」というのは、無害なプログラムを装ってパソコンシステム内に侵入し、標的に気づかれないように攻撃を行うマルウェアの一種で知られています。ウイルス感染には十分な対策をしておきましょう。
東路に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む
これは、江戸時代の浮世絵師、歌川広重(「安藤広重」と呼ばれたこともあった)の辞世の句だそうです。
36~37歳の時に「東海道中五十三次」を描いた歌川広重は、大晦日の夜、家の仕事が片付いたので、ふらりと築地付近を散歩しました。疲れたので、果物屋の店先に腰をおろし、ミカンを食べながら店の主人と世間話をしているうちに、絵の話になりました。
「近頃、広重という浮世絵師の版画が大変な評判ですが、私はあまり関心しません。あの街道に、あんな風体の人物が通っているはずがありません。何ともおかしいですよ。」
広重はその話を聞いて、急に旅立ち、想像とは違う道中の風景をスケッチしながら旅を続け、絵の修行を続けたのでした。
1837年 (天保8年)、中山道を経由して京、大坂から四国の丸亀へ旅行をして、帰路は奈良、伊勢を経て東海道を通って江戸へ帰っています。この時、40歳を超えていました。そして、亡くなる62歳まで、絵を描き続けました。『名所江戸百景』を制作中、コレラで亡くなったそうです。しかし、彼の作品は、その後、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えました。
歩き続けた2万キロ
伊能忠敬は、第二の人生で大きな業績をあげた人物です。忠敬が学問の道を志したのは50歳を過ぎた隠居からのことでした。その後、およそ17年をかけて日本列島を徒歩で測量し、日本で初めて実測に基づく地図を作ったのです。
忠敬が製作した地図は正式には「大日本沿海輿地全図」といい、俗に「伊能図」と呼ばれています。その精緻さは現代のものと比べても遜色のないほどで、幕末にイギリス艦隊が来航したとき、沿岸を測量して地図を作ろうとしたところ、伊能図の存在を知ってその必要がないことを悟ったといいます。さらに伊能図の精密さは、シーボルトによってヨーロッパに紹介され、西欧に驚きを与えました。
利根川水運で栄えた佐原の名家に婿養子として入った忠敬は、酒造や米穀取引で業績をあげ、傾いた家業を再建しました。私財を投じて窮民を救済、公共事業に尽力するなど、家業を安定させた忠敬は、家族の反対を押し切って隠居し、50歳を過ぎてから江戸に出て天文暦学を学したのです。
幕府の事業に協力することになった忠敬は、その後、約17年間に渡り、全国を測量して地図を作成するのですが、その動機は、実は暦学上の課題を究明するためでもありました。
当初は自費での測量でしたが、数々の苦難を乗り越えて測量を続けるうちに幕府に認められ、費用が支給されるようになって忠敬の地図作りはより完璧を目指すものとなります。
忠敬が蝦夷地測量に出発したのは、1800(寛政12)年4月19日のことでした、これに因んで、4月19日は、「地図の日」「最初の第一歩」の日に設定されています。
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