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オリンピック選手から学ぶ人生教訓

タイトル オリンピック人生教訓
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6月23日

6月23日は、「沖縄慰霊の日」であり、「オリンピックデー」です。

平和について考えざるを得ません。

沖縄出身の音楽家・平和活動家・政治家であられる喜納 昌吉さんの歌、「花」~すべての人の心に花を~を歌いたい日です。

オリンピック選手の話をする前に、まずは、その喜納 昌吉さんの手記をみつけましたので、紹介しましょう。

当時、高校1年生だった私の心をひきつけたのは、東京オリンピックの中継だった。

開会式で選手たちが抱き合い、笑いながら、涙を流していた。テレビは白黒の画面だったけれど、私には肌のちがう人たちが一つの心で結ばれているのがはっきりと感じとられた。

それまで私が生まれ育ってきたコザには、戦争の傷が色濃く残っていた。ところが、日本は戦後わずか19年で、人びとがどの国の区別もなく、友情を深め合うオリピックを開催した。16歳だった私は、そこに希望を感動していた。

「泣きなさい、笑いなさい…」

ふっと、自然にフレーズが頭の中で浮かんだ。

しかし、そこまでだった。幼かった私は、そのフレーズを完成させる力をもっていなかった。

数年後のある日、頭の中に降ってくる言葉と、体のそこからわいてくるメロディが結び合い、一つの曲になった。

 聴く人の数だけ「花」がある。

 そしてまた、歌う人の数だけ「花」がある。

心の花でもいい。魂の花でもいい。あらゆる生命の花が咲くようにと思いをこめて、それ以来ずっと私は歌ってきた。

そして今、私たち人間は新しい時代をむかえなければならない。人間の心によって 真の平和を築く、そういう時代をむかえなければならない。人類が、利益や、争いごとや、それらにまつわる不安から解き放たれ、一つに和合したときにこそ、新しい時代はやってくる。

「花」は、もう一度「心とはなにか?」という単純なメッセージを、人びとに投げかけているのだと思う。

そのメッセージを感じてくれた人びとが、それぞれの表現で、再び私に語りかけてくれたとき、そこにまたすばらしい花が咲く。平和に満ちた文化の創造を担う人びとの一人一人が、私にとっては素晴らしい花になる。

努力を忘れずに・・・

フィギュアスケートの伊藤 みどり選手は、1992年のアルベールヒル冬季五輪フランス大会で銀メダルを獲得した有名な選手です。このアルベールビル冬季五輪では、20年ぶりに金メダルをもたらせスキー複合団体をはじめ、日本勢は7個のメダルを取り、久々にTVの前で興奮させられました。

伊藤選手は、オリンピックのオリジナルプログラムで、安全策をとって選んだ演技で転倒し、思わぬ4位のスタートとなりました。しかし、様々なプレッシャーのかかる中で、自由演技ではみごとトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させたのでした。ジャンプを成功させた後の「みどりスマイル」は日本中を感動させました。

さて、この伊藤みどり選手は、もともとどんな人だったのでしょうか?

偶然にも、私の手元に、彼女の中学・高校時代の体力テストの結果があります。小さい頃からスケートを始め、さぞ、素質や環境に恵まれた人だったのだろうと想像するでしょうが、実際はそうではなかったようです。

体力テストの結果では、特に目立つ記録はありません。ごく平均的な記録であり、トリプルアクセルを成功させたあの跳躍力がどこにあったのかと思います。

また、伊藤選手は、母子家庭に育ち、家庭的にも決して恵まれてきたとはいえなかったそうです。

彼女の場合は、まさしく、努力の結果だったのでしょう。オリンピックでみせたあの不屈の精神力は、日頃の努力の賜物であったのだと思います。

様々なプレッシャーを感じる中で結果を出すには、素質や環境ではなく、「努力」だということを認識させてくれた出来事でした。

『決するものは根性』

1964年(昭和39年)、東京オリンピックで、東洋の魔女を率い、日本女子バレーボールに金メダルをもたらした大松 博文氏の著書「おれについてこい」の中の言葉です。

大松監督は、無名の選手ばかりを集め、ニチボウ貝塚という単独のチームで、世界一になったのでした。その猛練習は特に有名な話です。オリンピックの前には、1日平均5時間の睡眠で、仕事をしながら、練習にあけくれたといいます。時には、練習を終えると、朝だったという日もあったそうです。そして血のにじむような練習の中から生み出されたのが、「回転レシーブ」であり、「木の葉落としサーブ」だったのです。

その大松監督の著書から、名文句をひろってみましょう。

「スポーツには負けて勝つという世渡り上手は通用しない。」

「先ずれば、人を制す。」

「勉強にしろ、試合にしろ、仕事にしろ、全て事を成すにあたっては、自己をベストコンディションにおくことが第一だ。それは自分自身に対する忠実さであり、他に対する礼儀であり、そして、成功する鍵である。」

「物事は全て、おそるおそるやったら失敗する。勝負なら負ける。」

「訓練と忍耐は恐ろしい。不可能を可能にする。」

「負けじ魂、勝負への自信と根性は、いざという時、花を咲かせるのだ。」

「やるのだ! まだ息をしている!」

「人生には、病気をするぜいたくも許されないことがあり、時期がある。」

「だめになると思ったらだめになる。負けちゃだめだ。」

「全て、精神も肉体も集中して、命懸けでやれ。」

「『しんどい』を口にするな。それを口にした瞬間、最後の支えである精神力も崩壊されるのだ。」

「ナニクソ、ナニクソ、ナニクソ・・・」

「負けることなど考えずに、自信と、度胸と、どこまでも食い下がっていく根性が、 難関を突破する秘訣だ。」

「全ては自分自身のためだ。おれが苦労するのも、おまえたちが苦しむのも、他人のためではない。自分の心の修養になるのだ。」

「人間の努力は不可能を可能にする。」

「努力、努力、ただ努力。」

「なせばなる。なせばならぬなにごとも、ならぬは人のなさぬなりけり。」(明治天皇)

奥歯を噛みしめて継続せよ。

1972年、ミュンヘンオリンピックで男子のバレーボールが金メダルを取りました。「ミュンヘンへの道」がTVドラマ化されましたが、その時のエースアカッター大古 誠司選手には、こんなエピソードが残っています。

全日本の合宿では、斎藤コーチによる体力トレーニングがよくなされていました。なかでも、ボールに紐をつけ、コーチがそれを回して、その度にマット上で跳んだり、はねたり、場合によってはバク転をしたりするトレーニングが課されました。いわゆる、マット運動です。ところが、大男の大古選手にはそういうトレーニングについていけません。しかし、ある時、松平監督が、「倒立で9メートルも歩けないような選手は、全日本を去ってもらう」と公言したのでした。

その4年前のメキシコオリンピックで銀メダルに甘んじたのは、決勝戦で自分が弱気になって根をあげたことを知っていた大古選手は、それから連日、歯を食いしばって倒立の練習に励みました。そして、とうとう全日本のメンバーの見ている前で、倒立9メートルを歩いたのです。9メートルラインに手が届いた瞬間、大古選手は人目も気にせず、大泣きしたそうです。 何でもいい、一つのことをやり通して得た達成感は、その人の大きな自信に繋がるものです。ミュンヘンオリンピックの準決勝でブルガリアに先に2セットを先取され、絶対絶命のピンチになった時、大古選手の口から出た言葉は、「しんどいボールが俺にもってこい!」という自信に満ちた言葉でした。

大古選手は、のちに、カーター・ヘンダーソンの言葉をあげ、「奥歯を噛みしめて継続せよ」と話しています。

合掌(がっしょう)・決勝(けっしょう)・吉祥(きっしょう)

2008年に行われた北京オリンピック第13日目、ソフトボール日本チームは、変則トーナメントの準決勝で、アメリカに延長9回の末、1対4で敗れました。その約4時間後、更なる死闘が待っていました。

決勝進出をかけてのオーストラリア戦。上野投手の力投もあり、2対1でリードし、最終回の7回表オーストラリアの攻撃もツーアウト。あと1人のアウトで勝利を手にするというとき、同点ホームランを打たれ、延長戦へ。11回表オーストラリアが1点勝ち越し。しかし、その裏日本も1点返し、再び同点。そして12回裏、日本はワンアウト満塁の好機に西山選手が右中間にサヨナラヒットを放って、3時間半近い激戦に決着をつけました。

この時、サヨナラのホームベースを踏んだのは3塁ランナーだった三科 真澄選手です。彼女はサヨナラゲームの歓声が沸く中、ちょこんとホームベースに乗り記念すべき1点を印しました。そして、何とホームベースに向って、手を合わせ、頭を下げたのです。

長かった戦いがやっと終わったという思いで、お世話になったグランドに感謝の気持ちを表したのでしょうか? チームメイトの粘り強い戦いを称えたのでしょうか? あるいは、相手チームに対して労をねぎらったのでしょうか? いずれにしても、とてもさわやかな「合掌」の姿でした。

オリンピックはじめ、様々な試合で、日本人も外国人も、勝利すると握りこぶし高く掲げ、いわゆる「ガッツポーズ」を取る人がほとんどです。中には、外国選手で敬虔なクリスチャンなのでしょうか、胸のところで十字を切る人も見かけます。スポーツほど自分の実力に頼らざるを得ないものもありません。

しかし、どんなにすばらしい監督がいて、何万人の応援があったとしても、試合上では、誰も手を貸してはくれません。自分の力で闘うだけです。それでも実力を発揮できるのは、目に見える見えないにかかわらず、多くのおかげがあればこそなんだと、感謝の気持ちを忘れないことが大事ではないでしょうか。自分の力プラスおかげの力があると思えば、これほど頼りになるものはありません。おかげは無限なのですから・・・。

三科選手のホームベース上の合掌は、「また、このホームに帰ってくるから見守っていてね」と言っているかのようでもありました。事実、翌日のアメリカとの決勝戦で、三科選手は3回表に2塁打を放ち、先制のホームを踏みました。それは金メダルへの確実な一歩となりました。「合掌」は決勝につながり「吉祥」をもたらしたのでした。

タイトル オリンピック陸上競技
オリンピック陸上競技 感動4話オリンピック陸上競技の感動4話を紹介します。 2000年シドニー大会、女子マラソンで優勝した高橋 尚子選手の監督、小出 義雄氏は、「君ならできる」という本を出して、高橋選手の優勝が予言していました。 1928年アムステルダム大会、100m準決勝で、よもやの敗退を喫してしまった人見 絹枝選手は急遽、800mに出場し、日本女子選手初の銀メダルを獲得したのでした。その後、女子陸上普及や女子スポーツの重要性を訴えて全国を回り、過労のため若くして亡くなられましたが、「努める者は何時か恵まれる」という言葉を残しました。 1928年アムステルダム大会で陸上競技界、日本人初の金メダルを得たのは、三段跳びの織田 幹雄先生でした。後年、陸上の指導に精を出され、「大空に向かって階段を駆け上がれ」というような卓越した指導を残されました。 1936年ベルリン大会、男子棒高跳びの決勝で同じ高さを跳んだ大江 季雄選手と西田 修平選手は「日本人同士で争うことはない」と2、3位決定戦を辞退し、銀メダルと銅メダルが合わさった友情のメダルを作りました。...
タイトル フェアプレイ
フェアプレイ・・・オリンピック、サッカー、日本スポーツ協会にみるsportsman精神とは?スポーツ大会の開会式の選手宣誓では、「スポーツマン精神にのっとり・・・」と言われます。“sportman”は、勝っても驕らず、負けでも怯えずに堂々と相手を称えることのできる人,信頼できる人という意味です。 オリンピックの理念(オリンピズム)は、フェアプレーの精神をもって理解し合うことです。 サッカーはイギリス紳士のスポーツで、オフサイドやぺナルティーキックのルールにみられるように、フェアにプレーするのが当たり前とされてきました。 ところで、「体育」は教育による身体活動であり、「スポーツ」は、楽しみ・気晴らしというニュアンスがあります。日本スポーツ協会では、「フェアプレイで日本を元気に ―あくしゅ、あいさつ、ありがとう― 」をキャンペーンにして、フェアプレイが根付く社会の形成に取り組んでいます。フェアプレイ7カ条を紹介しましょう。...

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