【AI版】人間関係
※これは、筆者の著書「『皆さん、こんにちは』パワースポットが語ってくれた〝人生の生き方〟 」をAIに校正し直して作成したものです。
【奥入瀬渓流】花は香り、人は人柄
「花は香り、人は人柄」
魅力ある人は、人生の大則:①人生に対して覚悟を決めること、②傲慢にならず、謙敬であること、③誠実であること、④久しく続けること、に忠実である。

青森県十和田市に位置する奥入瀬渓流は、十和田湖東岸の子ノ口から北東の焼山まで、約14キロにわたって流れる美しい渓流です。国の**特別名勝および天然記念物(天然保護区域)**に指定されており、日本を代表する自然景観のひとつです。
渓流沿いには車道と遊歩道が整備されており、滝や清流、苔むした岩々など、見どころが尽きません。力強く流れる水の音に耳を澄ませていると、まるで心が洗われるような感覚になります。
歩いていると、ふと立ち止まりたくなるような心地よい香りに出会うことがあります。不思議なことに、場所によって香りが微妙に異なり、それぞれの自然が放つ個性を感じさせてくれます。その香りに包まれながら、ふと心に浮かんだのは——
「花は香り、人は人柄」
香りのない花は、どれほど美しく見えても、鳥や虫を惹きつけることはありません。同じように、人も人柄がなければ、どれほど知識や能力があっても、その魅力は半減してしまうのではないでしょうか。
人柄の良い人のまわりには、自然と人が集まってきます。それは、まるで香りに誘われて集まる昆虫たちのように。
では、「人柄が良い」とは、どういうことでしょうか。
それは、単に笑顔でいることや、優しく接することだけではありません。人を惹きつける魅力ある人とは、人生の「大則」に忠実な人だと思います。
その大則とは:
- 人生に対して覚悟を決めること
- 傲慢にならず、謙虚で敬意を持つこと
- 誠実であること
- 続ける力を持つこと
「経営の神様」と称された松下幸之助さんは、こう語っています。
「経営者にとって大事なことは、何と言っても人柄やな。結局これに尽きるといってもかまわんほどや。まず、暖かい心というか、思いやりの心を持っておるか、どうかということやね。」
スポーツの世界でも、優れた監督は人柄が良いと言われます。厳しさの中にある「温かさ」、一見冷たく見えても、その奥にある「思いやり」こそが、選手たちの心を動かし、チームをひとつにするのです。
では、人柄をどうやって見極めればよいのでしょうか。
『アンネの日記』の著者、アンネ・フランクは、「人柄がわかるのは、その人と大喧嘩したときだ」と述べています。確かに、極限の状況でこそ人の本質が現れるのかもしれません。
しかし、わざわざ喧嘩をしなくても、人柄を知る方法はあります。昔から「朱に交われば赤くなる」と言われるように、その人がどんな友人と付き合っているかを見れば、その人の人柄も自然と見えてくるのです。
最後に、相田みつをさんの詩を噛みしめてみましょう。
あなたがそこに ただいるだけで
その場の空気があかるくなる
あなたがそこに ただいるだけで
みんなのこころがやすらぐ
そんなあなたに わたしもなりたい
人柄とは、言葉や行動を超えた「存在の力」なのかもしれません。
あなたがそこにいるだけで、誰かの心が軽くなる——そんな人でありたいですね。
【碓氷から霧積へ】感謝はできますか?
どんなに「許せない」と思う相手でも、感謝はできるもの。
「感謝の心には奇跡が宿る。」
ただ、感謝の心は、一番早く年をとる。

1977年に公開された角川映画『人間の証明』。
森村誠一の長編推理小説を原作としたこの作品は、当時大きな話題を呼びました。
「キスミーに行く」と言い残して、ニューヨーク・ハーレムを飛び出した黒人青年ジョニー。彼は東京のホテルで、実の母・八杉恭子と再会した直後、エレベーターの中で母に刺されてしまいます。
彼の手には、血に染まった西條八十の詩集。そして、最期の言葉は「ストウハ…」。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?」というセリフは流行語となり、ジョー山中が歌った英語の主題歌「人間の証明のテーマ」も大ヒットしました。
Mama, do you remember the old straw hat you gave to me?
I lost the hat long ago, flew to the foggy canyon, yeah.
Suddenly the wind came up, stealing my hat from me, yeah—
Like the life you gave me.
母さん、あなたが僕にくれたあの古い麦わら帽子、覚えていますか。
あの帽子は、霧のかかった渓谷に飛んでいって、なくしてしまった。
そう、突然吹き上がった風が、僕から奪っていったんだ。
まるで、あなたが僕にくれた人生のように——。
若かった私は、家族を捨てて家を出て行った自分の母と、八杉恭子を重ね合わせ、母に対して強い恨みを抱いていました。
西條八十の詩「ぼくの帽子」には、こんな一節があります。
母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谿底へ落したあの麦稈帽子ですよ。
舞台となった碓氷峠から霧積への道には、「めがね橋」と呼ばれる美しいアーチ橋があります。
初めてその橋を訪れたとき、空からふと囁き声が聞こえてきたのです。
「許せない母に、感謝することはできますか?」
私は心の中で、静かに「できます」と答えました。
長く心に積もっていたものが、涙とともに流れ出し、心が晴れ渡っていくのを感じました。
人間は、どんなに「許せない」と思う相手に対しても、感謝することはできるのです。
アメリカの哲学者、R.W.トラインはこう語っています。
「感謝の心には、奇跡が宿る」
ただし、ギリシャのことわざにはこうもあります。
「最も早く老いるものは、感謝の心」
感謝の気持ちは、つい忘れてしまいがちです。だからこそ、感謝を持ち続ける努力が必要なのだと思います。
【晴明神社】罪を憎んで、人を憎まず。
生きていく中で、信頼していた人から裏切られたり、騙されたりすることもある。関わりたくないと思う人と出会うこともある。しかし、「罪を憎んで、人を憎まず」が大切。

京都市上京区にある晴明神社は、平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明を祀る神社です。大阪市にある安倍晴明神社と同じく、1007年に建立されたと伝えられていますが、京都の晴明神社は、晴明の功績を称えた一条天皇が、晴明の屋敷跡に創建したものです。一方、大阪の安倍晴明神社は、晴明の誕生の地とされ、阿倍王子神社の末社として祀られています。
鳥居をくぐると、手水舎の右奥に**晴明井(せいめいい)**があります。これは、晴明が念じて湧き出させたと伝えられる井戸で、病気平癒のご利益があるとされる吉祥の水が流れています。また、ご神木の手前には、厄除けの桃が鎮座しており、撫でることで邪念が払われるといわれています。
晴明が開祖とされる陰陽道で用いられる祈祷呪符のひとつが、「晴明桔梗」とも呼ばれる**五芒星(ごぼうせい)**です。これは、木・火・土・金・水という五行を象徴し、厄除け・魔除けの印として古くから重宝されてきました。
私たちは人生の中で、信頼していた人に裏切られたり、騙されたりすることがあります。関わりたくないと思う人と出会うこともあるでしょう。
私自身、かつてはそうした人たちを許すことができませんでした。どうしても一緒に仕事をしなければならない時には、京都市東山区の安井金比羅宮の「悪縁切り・良縁結び」のお守りや、伏見区の城南宮の方位除けのお守りを手に入れて、心の平穏を保とうとしていました。そして、晴明神社の五芒星もまた、同じように厄除け・魔除けとして手に入れたのです。
しかし、ある時ふと思いました。
「私を裏切ったり騙したりした人は、たまたまそういう結果になっただけかもしれない。最初から悪意があったわけではないのかもしれない。100%善人がいないのと同じで、100%悪人もいないのではないか。そんな人たちを遠ざけてばかりいて、本当にいいのだろうか」
中国の古典『孔叢子(くぞうし)』には、こう記されています。
子曰く、「可なるかな。古の訟を聴く者は、其の意を悪みて、其の人を悪まず。」
ここから生まれたのが、よく知られる言葉——
「罪を憎んで人を憎まず」です。
歴史上、最も有名な「裏切り」といえば、1582年6月2日に起きた本能寺の変でしょう。明智光秀が主君・織田信長を討った事件です。かつては「謀反人」として語られてきた光秀ですが、近年では民を思う名君として描かれることも増えました。
信長の最期の言葉は、「是非に及ばず」。
それは、もしかすると赦しの言葉だったのかもしれません。
人を許すことは、簡単ではありません。
けれど、感謝の心を持つことで、私たちは少しずつ変わることができます。
アメリカの哲学者 R.W.トラインはこう語っています。
「感謝の心には、奇跡が宿る」
一方で、ギリシャのことわざにはこうあります。
「最も早く老いるものは、感謝の心」
感謝の気持ちは、すぐに忘れてしまうもの。だからこそ、感謝を持ち続ける努力が大切なのです。
【京都神泉苑】鶏口となるも、牛後となるなかれ
「鶏口となるも、牛後となるなかれ」
真のよきリーダーとは、常に過つことなく、正しい本筋だけを指し示す人。

京都市中京区にある神泉苑(しんせんえん)は、東寺真言宗に属する由緒ある寺院です。平安時代、弘法大師・空海がここで祈雨修法(雨乞いの祈祷)を行った霊場として知られています。
また、後白河法皇の命を受けて、のちに源義経(牛若丸)の側室となる静御前がこの地で雨乞いの舞を舞ったところ、三日三晩にわたって大雨が降り続いたという伝説も残されています。
境内には、本堂の仏様と池に棲むとされる龍神様をつなぐ「法成橋(ほうじょうばし)」があります。この橋を、願い事を一つだけ心に念じながら渡り、善女龍王社に参拝すると願いが叶うと伝えられています。
ある日、私は池のほとりで一時間ほど水面を見つめていました。すると、心の中にふと、龍が語りかけてくるような感覚がありました。
「長たる者(リーダー)は、方向を示すだけでよい。」
「鶏口牛後(けいこうぎゅうご)」ということわざがあるように、私たちは望むと望まざるとにかかわらず、リーダーとしての立場に立たされることがあります。職場だけでなく、家庭においても、親となれば自然とリーダーの役割を担うことになります。
では、理想のリーダーとはどのような人物なのでしょうか。
古今東西、数多くのリーダー論が語られてきました。中でも有名なのが、山本五十六の言葉です。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」
これは、今なお多くのリーダーにとっての指針となっています。
細かく指示を出すリーダーは、面倒見がよく、優秀に見えるかもしれません。しかし、時にその細かさが、部下の自主性を奪い、進むべき道を見失わせてしまうこともあります。
世界の宗教の開祖や古代の偉大な哲学者たちに共通しているのは、自ら著書を残していないという点です。彼らの教えは、弟子たちが後にまとめ、広めていったのです。
子育てにおいても同じです。
「子は親の背を見て育つ」という言葉があるように、親が子どもを導こうとするならば、口うるさく指示するのではなく、自らが日々を誠実に生きる姿を見せることが何よりの教育となります。子どもたちは、やがてその背中を見て、自らの道を歩み始めるのです。
真のリーダーとは、常に正しい本筋を指し示し、過ちなく、静かに道を照らす存在なのです。
アメリカの作家ヘンリー・ミラーもこう語っています。
「本当のリーダーというものは、人をリードする必要はない。ただ道を示すだけでよい。」
リーダーシップの本質とは、方向を示すこと。つまり、理想や夢を掲げ、それを語ることにあるのだと思います。
東洋思想家であり、「昭和の宰相の知恵袋」とも称された安岡正篤氏は、こう述べています。
「真の指導者は必ず謙虚で、私が無く、自己の利害・欲望によって汚されない良心から起つべきものである。
社会の善のため、人類の幸福と進歩のために指導し、私心を満たすためにするのではない。
賢明な指導者は、何よりもまず自分自身の指導者、模範となるよう心がけるべきだ。」
まさに、これこそが「人の上に立つ人」のあるべき姿ではないでしょうか。
【高台寺】Love is giving.
「愛」の反対は「無関心」
Love is giving.

京都市東山区にある高台寺は、臨済宗建仁寺派に属する由緒ある寺院です。
この寺は、豊臣秀吉の正室である北政所(ねね)が、秀吉の冥福を祈るために建立したものです。
ねねは14歳で秀吉と結婚し、天下統一を目指す彼を献身的に支え続けました。
ねねの支えがあったからこそ、秀吉は天下人となることができたのでしょう。
子どもには恵まれませんでしたが、秀吉の親戚である加藤清正や福島正則らを我が子のように可愛がり、育てたと伝えられています。
秀吉の死後、ねねは側室・淀君の息子である秀頼の後見人となり、淀君とも連絡を取り合っていたそうです。
そして、大阪夏の陣で大阪城が炎に包まれる様子を、高台寺から涙ながらに見つめていたというエピソードも残されています。
豊臣家が滅亡した後も、ねねは命を奪われることなく、徳川家康から化粧料一万六千石を与えられ、穏やかな余生を過ごしました。
高台寺を訪れると、ねねの生き様が静かに語りかけてくるようです。
ねねの人生は、まさに「愛」そのものだったのではないでしょうか。
ところで、「愛する」の反対は何でしょうか?
多くの人は、「憎む」だと答えるかもしれません。
確かに、愛情の反対は憎悪とも言われますが、実は「愛する」と「憎む」は、どちらも強い感情を相手に向けるという点で共通しています。
大脳生理学によれば、「愛する」と「憎む」をつかさどる脳の部位は同じだそうです。
「愛憎」という言葉があるように、強い思いがあるからこそ、愛は憎しみにも変わり得るのです。
「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざも、まさにその心理を表しています。
では、「愛する」の本当の反対は何か——ーそれは、無関心です。
無関心とは、相手に目を向けず、心を動かさないこと。
それは、現実を否定する、最も残酷な仕打ちとも言えるでしょう。
「私には関係ない」という態度が、家族や友人関係、学校や社会を静かに、しかし確実に壊していくことを、私たちは忘れてはなりません。
現代社会では、「Give and Take」が当然のように語られています。
しかし、子どもを育てるには、見返りを求めず、Give and Giveの姿勢が大切です。
それは、いわば「無償の愛」とも言えるでしょう。
マザー・テレサはこう語っています。
“The love begins at home.”(愛は家庭から始まる)
“Love is giving.”(愛とは与えること)
つまり、愛とは差し出すこと、捧げること——すなわち、犠牲なのです。
人のために命を捧げることは、誰にでもできることではありません。
けれど、愛を実践する勇気を持つことは、誰にでもできるはずです。
【安井金比羅宮】良き人間関係の構築
良い人間関係は良い人生につながる。
人間関係のトラブル発生時、三次元的解決法は、①戦う,②逃げる,③我慢する。四次元的解決法は、“Never mind.”、五次元的解決法として“No problem.”。

京都・東山にある安井金比羅宮は、「縁切り神社」として全国的に知られています。
この神社は、崇徳天皇が讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切り、参籠されたことに由来し、断ち物・縁切りの祈願所として信仰されてきました。
男女の縁はもちろん、人間関係、病気、酒、煙草、賭け事など、自分が断ち切りたいと思うすべての悪縁を断ち切ってくれるとされています。
境内には「縁切り縁結び碑」と呼ばれる碑があり、悪縁を断ち、良縁を結ぶパワースポットとして多くの人が訪れています。
良い人間関係は、良い人生につながる。
オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と述べています。
しかし、人生において非常に重要なこの「人間関係の築き方」は、学校でも家庭でも、意識的に教えられることは少ないのが現実です。
人間関係にトラブルが起きたとき、一般的な対処法は次の3つです。
- 戦う
- 逃げる
- 我慢する
これはいわば「三次元的解決法」と言えるでしょう。
さらに次元を上げると、
四次元的解決法:「Never mind.(気にしない)」
五次元的解決法:「No problem.(問題なし)」
という考え方もあります。
アメリカの人間関係の権威レス・ギブリンは、人を惹きつける三大秘訣を挙げています。
- 人をありのままに受け入れること
- 相手の良さを認めること
- 一人ひとりを大切にすること
人間関係を円滑にし、仕事や生活をスムーズにするには、小さな努力の積み重ねが何よりも大切なのです。
「ストレスは万病のもと」と言われますが、心学研究家小林正観氏によると、ストレスの解消には西洋的解決法と東洋的解決法があるそうです。
西洋的解決法は、思い通りにならないことがあったとき、努力と根性で現実を変える方法です。
一方、東洋的解決法には2つの考え方があります。
- 「世の中はそもそも思い通りにならないものだ」と思い定めること
→ これは『般若心経』の「空即是色」の境地に通じるものです。 - 「思いそのものを持たない」こと
→ 悩みや苦しみを手放すという考え方です。
特に人間関係においては、相手を変えようとすればするほど、トラブルが起こり、ストレスが溜まります。
他人・過去・感情は変えられない。
変えられるのは、未来・自分・行動です。
だからこそ、私たちは変えられるものにエネルギーを注ぐべきなのです。
【平安神宮】友を持とうとするな、友と共にあれ。
友を持とうとしてはいけない(not to have)。
『親しき中にも礼儀あり』
友と共にあれ(to be)。

毎年3月、京都・平安神宮を中心に開催される**「京都さくらよさこい」**は、関西最大規模のよさこい祭りとして知られています。
YOSAKOI(よさこい)は、今や日本の文化のひとつとなり、全国各地で盛んに行われています。
その熱気と躍動感に触れるだけでも、心が元気になるような感覚を味わえます。
娘が大学時代、よさこいチームに所属していたこともあり、私も何度も見学に足を運びました。
仲間たちと一体となって踊る姿を見て、「良き友を持っているなあ」と、心から嬉しく思ったものです。
「コンコードの詩人」と呼ばれたアメリカの思想家、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、
「友を得る唯一の方法は、自分がその人の良き友であることだ」
と述べています。
私は娘に、人生の節目ごとに良き友を得られるよう努力しなさいと教えてきました。
友情は、人生を豊かにする大切な宝物です。
ドイツの精神分析学者エーリッヒ・フロムは、
人間の遺伝子には「持つ能力(to have)」と「ある能力(to be)」の2つが組み込まれていると述べています。
「持つ」とは、所有すること。
「友達を持つ」という表現は、友達を自分の都合の良い存在として扱う危険性を孕んでいます。
本来、友情とは「共にある」関係であるべきです。
現代社会では、「持つ能力」ばかりが重視されがちです。
お金を持つ、家を持つ、高い学歴を持つ……。
「モノを持つことが幸せ」という価値観が、間違った個人主義を生み、人と人とのつながりを希薄にしているのではないでしょうか。
友情とは、自分本位では長続きしません。
共に喜び合い、助け合い、ただ「共にある」ことに幸せを感じる——それが本当の友情です。
人は、親しくなるほど、相手との一体感を求めがちです。
しかし、それは真の人間愛ではありません。
お互いの人格を尊重し、相手の生き方を認める心があってこそ、良い人間関係が築かれるのです。
日本には古くから「親しき中にも礼儀あり」という言葉があります。
これは、人間関係には適度な距離が必要であることを教えてくれます。
評論家の外山滋比古氏は著書『親は子に何を教えるべきか』の中で、
「車に車間距離が必要なように、人間関係にも人間(じんかん)距離が必要だ」と述べています。
本当に良い人間関係を保つには、相手と一体化したいという欲望に耐える苦しみが伴うのです。
「友は友、我は我なり、されど仲良き」
これは、『友情』などの著書で知られる小説家、武者小路実篤の言葉です。
互いに違う存在でありながら、心を通わせ、共に歩む——
そんな友情こそが、人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。
【二ノ宮神社】恩送り(Pay it forward)
物事を「前向き」に考え、「感謝」の心を持ち、「笑顔」に気をつけていると、物事はいい方向に回り始め、回りまわって願いごともかないやすくなる。
「恩返し」より、「恩送り」(Pay it foward)に心掛けよう。

大阪・枚方市にある二ノ宮神社は、「願いが叶う」と評判の神社です。
織田信長が社殿の修繕を行い、豊臣秀頼が大坂城の鬼門鎮護の神社として崇敬し、本殿を修復したという歴史を持つ、由緒ある神社です。
この神社のお参りは少し変わっていて、**願い事をするために訪れるのではなく、「おかげさま参り」**をするのが特徴です。
ある時、どうしても叶えたい願いがあって参拝した際、神職の方から「願いを叶いやすくする方法」として、次の3つのことを教えていただきました。
- 物事を前向きに考えること
- 感謝の心を持つこと
- 笑顔を忘れないこと
この3つを意識して過ごしていると、物事が良い方向に回り始め、やがて願いも叶いやすくなるのだそうです。
仕事でも人間関係でも、「前向き」「感謝」「笑顔」を心がけることで、うまくいくことが増えていく——そんな実感があります。
いくら神通力のある神様でも、マイナス思考で不平不満ばかりを口にし、つまらなそうな顔をしている人に、幸運を授けることはできないのかもしれません。
人生を変えるのは、やっぱり自分次第なのです。
私たちは、生まれてから今日まで、数えきれないほどの恩恵を受けてきました。
自然の恩、父母や家族の恩、先生や友達の恩、社会や学校の恩……。
「恩」という文字は、「心の原因」と書きます。
つまり、自分という存在がどこから来て、どのように育まれてきたのかを知ることが、「恩を知る」ということなのです。
また、「恩」という漢字は「口」「大」「心」から成り立っています。
「口」は環境、「大」は人が手足を伸ばしている姿。
そのように手足を伸ばして生きていられるのは、何かのおかげであると気づく心こそが、「恩を知る」ことなのです。
これからは、受けてきた恩を自分から発信することを考えていきましょう。
「与えられる人」から「与える人」へ——それが、大人になるということかもしれません。
「恩返し」という言葉がありますが、受けた恩をその人に直接返すことは、なかなか難しいものです。
しかし、受けた恩を別の誰かに送り届けることはできます。
それが「恩送り」です。
日本には古くから「情けは人の為ならず」という言葉があります。
これは、「人にかけた情けは、巡り巡って自分に返ってくる」という意味であり、「恩送り」の考え方に通じるものです。
近年では、英語圏でもこの「恩送り」の概念が再認識され、**“Pay it forward”**という表現が使われるようになっています。
この“Pay it forward”をテーマに、2000年には小説『ペイ・フォワード―可能の王国』が出版され、そのアイデアをもとにペイ・イット・フォワード財団も設立されました。
願いが叶う神社で教わった「前向き」「感謝」「笑顔」。
そして、受けた恩を次の人へとつないでいく「恩送り」の心。
これらは、私たちの人生をより豊かに、あたたかくしてくれる大切な指針です。
【法隆寺】無くて七癖、有って四十八癖
「無くて七癖、有って四十八癖」
いい癖は、その人の個性として、伸ばしたい。
「江戸しぐさ」に学ぼう。

奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺は、姫路城とともに日本で最初に世界文化遺産に登録された、歴史と文化の象徴です。
飛鳥時代、厩戸王(聖徳太子)によって創建され、一度は火災で失われましたが、再建されてから1300年の歴史を持つ、世界最古の木造建築として知られています。
「斑鳩寺」「法隆学問寺」とも呼ばれ、学びと祈りの場として多くの人々に親しまれています。
法隆寺といえば、宮大工・西岡常一氏の言葉が印象的です。
「癖のある( )を使うのは厄介だが、うまく使えばその方がいいこともある。
癖のある( )ほど、その命も強い。反対に癖のない( )は弱い。
癖のある( )は何も悪いものではない。要は使い方次第である。」
この( )に入る言葉は、もちろん「木」です。
西岡氏は、木の個性を見抜いて活かすことこそが、強く長持ちする建築につながると語っています。
しかし現代では、個性よりも平均化を優先し、扱いやすい木材ばかりが使われるようになってしまったことを、嘆いておられました。
ところで、この言葉の( )には、「人間」を入れても違和感がありません。
実際、西岡氏は「人間も木と同じで、癖のある人材こそ求めたい」と述べています。
「癖」は、その人の個性であり、トレードマークでもあります。
「癖のある木ほど強い」という言葉は、人間にも当てはまるでしょう。
「無くて七癖、有って四十八癖」と言われるように、人は誰しも何らかの癖を持っています。
もちろん、悪い癖は直す努力が必要ですが、良い癖はその人の魅力として伸ばしていきたいものです。
話は変わりますが、江戸時代には「商人しぐさ」「繁盛しぐさ」とも呼ばれる、商人道・哲学としてのマナーがありました。
それが「江戸しぐさ」です。
当時の江戸の街は、現在の東京の10倍以上の人口密度だったにもかかわらず、今の警察官にあたる「同心」はわずか24人で治安を守っていたといいます。
近年、公共広告機構(AC)のCMでも「江戸しぐさ」が取り上げられました。
「江戸しぐさ」は、互いに尊重し助け合い、地域で快適に暮らすための共生の哲学であり、江戸商人のリーダーたちが築き上げた人間関係を円滑にする知恵でもありました。
また、「江戸しぐさ」には、子どもを育てるための言葉として、次のような教えがあります。
「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」
これは、
- 3歳までに素直な心を育てる
- 6歳で節度ある振る舞いを身につける
- 9歳で人前でも恥ずかしくない言葉遣いを覚える
- 12歳で文章が書けるようになる
- 15歳で物の道理を理解する
という、人としての成長段階を示した教育論です。
この教えは、現代にも通じる人間教育の本質ではないでしょうか。
「癖のある木ほど強い」
「癖のある人ほど魅力がある」
「人間関係には思いやりと距離感が必要」
これらの知恵は、時代を超えて私たちの心に響くものです。
【玉置神社】類は友を呼ぶ。
人間は環境に影響を受けやすく、「朱に交われば赤くなる」。
しかしながら、「類は友を呼ぶ」といわれるように、自分自身に原因があることも多い。

奈良県吉野郡十津川村、標高1000メートルを超える玉置山に、熊野三山の奥の宮として創建された玉置神社があります。
「神様に呼ばれた人しか参拝できない場所」として知られ、訪れた人々は、数々のスピリチュアルな不思議体験を語っています。
天地創造や国造りの神々を祀るこの神社では、さまざまなご利益があるとされています。
中でも、縁結び・悪霊退散・開運厄除け・病気平癒・家内安全・立身出世・安産など、人生の節目に寄り添うご利益が多くの人々の心を惹きつけています。
境内には「龍神水」と呼ばれる霊泉があり、特に浄化力が強いと評判です。
玉置神社の本殿から玉置山の中腹にかけて、最大のパワースポットとされる玉石社が鎮座しています。
社殿はなく、ご神体である玉石に直接礼拝するという、古代の信仰様式が今も残されています。
修験道の聖地としても知られ、大峯修験道では、玉石社を本殿に先んじて礼拝するのが習わしとされています。
大小さまざまな玉石を見つめていると、ふと心に浮かんだのは——ー
「類は友を呼ぶ」という言葉でした。
小学校に入る頃、「いちねんせいになったら ともだちひゃくにんできるかな?」という歌を口ずさんだ人もいるでしょう。
学校では「友だちを作りましょう」「みんなと仲良くしましょう」と教えられますが、無理に友だちを作る必要はないし、全員と仲良くしなければならないわけでもありません。
人は環境に大きく影響されます。
「朱に交われば赤くなる」ということわざの通り、特に若い時期は、付き合う友人によって人生の方向が左右されることが多いのです。
周囲の友人が勉強や部活動に一生懸命取り組んでいれば、自分も自然と前向きになります。
逆に、怠けることに慣れてしまった友人が多ければ、自分もその影響を受けてしまうかもしれません。
仏教の開祖・釈迦はこう語っています。
「朝、陽が昇る前には、まず東の空が明るくなる。それは陽の昇る兆しである。
善きことをなす時にも、その兆しがある。それは、善き友を持つことである。」
善き友を得ることは、善き人生の兆しなのです。
とはいえ、「類は友を呼ぶ」と言われるように、自分がどんな人間であるかが、どんな友人を引き寄せるかを決めるのです。
良い友人に恵まれるためには、まず自分自身が真面目に、一生懸命に生きる姿勢を持つことが大切です。
一度きりの人生。
どうか、善き友と出会い、共に歩む人生を築いてほしい——
そんな願いを込めて、この言葉を贈ります。
【丹生川上神社】ユーモアを大切に!
「笑う門には福来たる」「笑いは百薬の長」「一笑一若」。
笑いは肉体の健康の源、精神の健康の源である。
ユーモアを解せる国際人になろう。

奈良県の丹生川上には、神武天皇が天神の教示を受けたとされる神聖な地があります。そこには、龍神・高龗(たかおかみ)大神を祀る丹生川上神社上社が鎮座しています。さらに、上社から二、三〇キロほど離れた場所には、中社と下社もあり、三社が揃って丹生川上神社を構成しています。
後醍醐天皇が「この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空」と詠まれた上社は、古来より祈雨・止雨の霊験あらたかな神社として、朝廷から深い崇敬を受けてきました。境内には狛犬の代わりに馬が鎮座しており、神秘的な雰囲気を醸し出しています。
中社では、水に関するすべてを司る女神・罔象女神(みつはのめのかみ)が主祭神として祀られています。下社には白馬と黒馬がいて、絵馬発祥の神社としても広く知られています。
三社を巡る旅は、心を穏やかにし、自然と笑顔がこぼれます。なぜか、胸の奥から笑みが湧き上がってくるのです。
「笑う門には福来たる」「笑いは百薬の長」「一笑一若」といわれるように、笑いは肉体の健康の源であると同時に、精神の癒しでもあります。人を笑わせるユーモアやジョークは、機械でいえば潤滑油のようなもので、ギスギスしがちな人間関係の歯車を滑らかに回すために欠かせないものです。
アメリカの作家シンクレア・ルイスは、「人間には耐えられない侮辱が二つある。ユーモアのセンスがないという断言と、苦労知らずだという断言だ」と語り、ユーモアの感覚のない者は人間として恥ずかしいと述べています。ユーモア・センスは知性の証であり、アメリカではジョークを言えない人は「レベル以下」と見なされることさえあるそうです。大学教授が学生を一日一回笑わせなければならないという話もあるほどです。
オランダの歴史学者ホイジンガは、人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と呼びました。ジョークは単なる娯楽ではなく、人生の意味を感じさせる教育の一種だと私は思います。
また、「日本人はIQばかり気にするが、もっとHQを大切にすべきだ」という意見もあります。HQとは「ユーモア指数」のことで、心の豊かさを測る指標です。
日本人は真面目で勤勉な性格が多く、粘着性気質と呼ばれる傾向があります。これは他人への警戒心が強く、自己防衛意識が高いため、心を開いて付き合うことが難しいという特徴があります。その結果、ユーモアが生まれにくくなるのです。
困難な状況にあるときこそ、笑いが必要です。笑いは希望の光であり、心の支えです。ユーモアを理解し、笑いを大切にする国際人でありたいものです。
【久高島】親とは・・・子守唄を歌う人
そっと二度の子守唄を歌う人が「親」である。

沖縄本島の東南端、知念岬から約五キロの海上に浮かぶ久高島は、「神に呼ばれた者だけが訪れることができる」と言われる神秘の島です。周囲八キロほどの小さなこの島は、琉球の創世神・アマミキヨが天から降り立ち、国づくりを始めた聖地とされています。琉球王朝時代には、特別な祈りの場として崇められてきました。
島の中央に位置するクボー御嶽は、今もなお、誰も立ち入ることが許されない神聖な場所です。
ある年の九月三十日、「両親の日」に私はこの島を訪れました。クボー御嶽の手前まで来たとき、ふと相田みつをさんの詩が心に浮かびました。
「アノネ 親は子供をみているつもりだけれど 子供はその親をみているんだな
親よりもきれいなよごれない眼でね」
人は、子供が生まれたからといって、すぐに「親」になれるわけではありません。では、「親」とはどんな存在なのでしょうか。
「親」という漢字は、木陰に立って子を見守る姿を表すと言われますが、実はそうではありません。左側の「親」の部首は「木」に「立」ではなく、もともとは「辛」という字です。「辛」は針を意味し、入れ墨や針治療に使われることから「痛み」や「つらさ」を象徴します。その針を林の中に投げ入れ、刺さった木を切って作るのが、亡き親の位牌です。これを斧で切ると「新」という字になります。つまり、「新」は亡き親の位牌を新たに作るという意味を持ちます。
さらに、「新」に草冠をつけると「薪」となり、神木として選ばれた木を祭りで燃やすことから「まき」と呼ばれるようになったのです。
「親」の右側は「見る」。亡き親を思いながら、じっと見つめる心。それが「親」という字の本来の意味なのです。
「私が親になったとき」(作者不詳・宮沢賢治の作品とも言われる)という詩には、こうあります。
「自分が真理から目をそむけて 子供たちに本当のことが語れるか」
ある日、息子が孫に子守唄を歌いながら寝かしつけていました。その歌を聞いて、私は驚きました。なんと、それは我が家で代々歌い継がれてきた作り歌だったのです。
子守唄は、世界中で歌われています。日本では、子守女が自らの境遇を嘆いたり、故郷への思いを込めたりする歌が多いそうです。赤ちゃんにとって子守唄は、言語能力の向上、精神の安定、語彙力の発達、知能指数の向上、感情表現の豊かさ、そして思いやりの心を育むなど、さまざまな良い影響があることが明らかになっています。
子育てには、二度の子守唄が必要だと言われます。
一度目は、赤ちゃんがよく眠り、すくすく育つための子守唄。
二度目は、子供が一人立ちする時、親がその背中に向かって、口の中でそっとつぶやく「顧い(おもい)」の子守唄です。
その二度目の子守唄を歌うタイミングは難しいものですが、静かに、そっと歌う人。それこそが「親」という存在なのだと思います。
