夢の架け橋
皆さん、おはようございます。
「夢の架け橋」というのは、明石海峡大橋のことです。
今から約60年ほど前、土木工学の専門家でもあった当時の原口 忠次郎神戸市長は、明石海峡と淡路島そして鳴門に橋を架け、本土と四国を陸続きにしようと考えていました。そこで、調査費の予算を市議会に出しました。すると、「財源に余裕がない」「市長は白日夢でも見ているのではないか」などと反対意見が出ました。この時、原口市長は、「人生はすべからく夢なくてはかないません」と言われたのだそうです。そして、その時以来、明石海峡大橋は「夢の架け橋」と呼ばれるようになりました。
原口市長は粘り強く橋の実現に向けて努力を続けました。残念ながら、1998年、橋が完成した姿を見ずに亡くなられましたが、原口市長の「人生はすべからく夢なくてはかないません。」に多くの人が影響を受けました。
「夢あるところに」
夢あるところに 計画あり。
計画あるところに 実践あり。
実践あるところに 向上あり。
向上は人間の悦びであり。
悦びは 満足なり。
ライバルM君
この原口市長の「人生はすべからく夢なくてはかないません」という言葉に感銘を受け、エンジニアを目指した男が、私の小学校から、中学校、高校、大学のライバルであったM君でした。
「こいつには負けたくない」と本気で思った奴は、これまでの人生の中でたった一人、M君でした。
小学校時代
彼は小学校の頃から運動能力に優れ、特に短距離走が速く、運動会ではいつもヒーローでした。野球センスも抜群で、少年野球では常に4番バッターでした。また、勉強もよくできるスーパースターでした。
小学校時代、私は「彼は別格」と思って接していましたが、同じ少年野球のチームに入ってから、彼に追いつきたいと思うようになりました。
そこで、彼は生粋の左利きだったのですが、私も左バッターに転向し、4番バッターの座を奪い取ろうと猛練習をしました。しかし、結局、彼の飛距離は半端でなく、私は5番バッターで、彼がホームランを打ってランナーのいない場面で打席に立っていました。
中学校時代
中学校に入って、私は野球を辞め、バレーボール部に入りました。野球では彼に勝てないと悟ったことも、一因だったと思います。私は別の道で大成してやろうという気でした。彼は、1年生でレギュラーになり、野球部はその年、全国大会に出場していました。
ある日、校内のマラソン大会がありました。結果は、私は全体で3位、彼は6位。その後、彼がしきりに私に負けたことが悔しいと言い、「勉強だけは負けたくない」と公言して、試験のたびに「何点とった?」と私のところに聞きにくるのでした。彼が家で休みの日は10時間勉強していると聞くと、私は12時間勉強してやろうと思い、実行しました。結局、2人とも「1日14時間は勉強できるなあ」ということで落ち着きましたが、いつもテストの点も競い合っていました。
運動面では、相変わらず、彼は短距離走が速く、陸上競技大会では陸上部よりも目立っていました。私は短距離走では勝てないと思い、長距離走と身長をいかして走り高跳びに力を入れて練習しました。
そして、私はバレーボール部を引退した後、陸上部に入って、駅伝選手として活躍し、県大会にも出場しました。それと同時に文化祭、連合音楽会に参加するためにコーラス部に入って活動をすることになりました。
なんでもライバル意識を燃やすM君も、野球部を引退すると、なんとコーラス部に入ってきました。彼は口蓋裂があり、「歌は歌うのは苦手だ」と言っていたので、どうやってコーラス部に入ってきたのかはわかりませんでしたが、とにかく、私たちは、運動部の時以上に大変な練習をし、30分間13組曲の「お母さんのバカ」という曲を歌いこなしました。
高校時代
そして、高校時代、あまりテストの点を競い合うようなことはしなくなりましたが、彼は野球部で、私はバレーボール部でそれぞれキャプテンを務めながら、将来の道について話をすることが多くなりました。
彼は、エンジニアを目指したいということで、地元の国立大学工学部への進学を決めていました。私は彼と同じ道ではなく、教師になろうと思って、教育学部に行くことにしましたが、やはり地元の国立大学を一番に考えました。
当時、国立大学を受験するには、共通一次テストを受験しなければなりませんでした。とろろが彼はその共通一次テストで思うような点がとれず、地元の国立大学を諦めて、地方の国立大学を受験しました。
結果はどちらも合格だったのですが、彼はなんと地方の国立大学を蹴り、一浪して地元の国立大学に入ってきました。
大学時代
大学時代は、学部も学年も違うので、直接の接点はありませんでしたが、彼は公式野球を続け、私はバレーボール部に入りながらスキーに熱中し、暗黙の了解でお互いの活躍を競い合っていました。
また、彼女も競っていました。「昨日、連れてきていた彼女は、お前の彼女より可愛いやろ!」「いやいや、それは前の彼女やろ。今の彼女はお前の彼女よりべっぴんや!」などと、会うたびに冗談交じりで話をしていました。
社会人時代
そして、就職。M君はエンジニアとしてスタートしました。原口 忠次郎神戸市長の「人生はすべからく夢なくてはかないません」の言葉に感銘を受けていた彼は、「夢の架け橋」明石海峡大橋の建設にかかわりたいという思いも当然ありました。
しかし、彼が最初務めた会社の部署では希望とあわず、異例の部署配置をしてもらったそうです。ところが、その異動した部署でも思うような仕事ができないということで、会うたびに彼はぼやいていました。
私は彼に言いました。「ぼやくなんてお前らしくない。俺は、お前の愚痴なんて聞きたくはないぞ!」
それまで、小学校から大学まで、常にスポーツも勉強もトップクラスを走っていた彼が、初めてつまづいた経験だったのでしょう。
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25歳のある日、とても悲しい知らせが届きました。彼が死んだというのです。しかも、淡路島の海に浮いていたというのです。彼は仕事帰りに酒を浴びるほど飲んで、工事中の明石海峡大橋を眺めながら海に落ち、3日後に死体で発見されたのでした。
人生これからなのに。まだ結婚もしておらず、子どももいないのに…。私は、彼にとても厳しいことを言ってしまった。スーパースターの彼だって一人の人間だったのです。彼の愚痴をなんでしっかり聞いてあげれなかったのか・・・。
彼と私は、お互いに認めるライバル同士でした。私は彼と出会わなかったら、スポーツも、それほど上を目指してやっていなかっただろうし、勉強もそんなに頑張らなかったかもしれません。高校に入ったのも大学に入ったのも彼の影響でした。「こいつには負けたくない」と本気で思った奴は、これまでの人生の中でたった一人、彼だけでした。
今の私にできることは、彼の分まで人生を生きることだと思っています。
彼が経験できなかったことを、私が代わりにやって、冥途の土産話に持っていってやろうと思っています。
ライバルを持て
ドイツの社会心理学者・精神分析学者・哲学研究者(後にアメリカに亡命した精神分析学者)のエーリッヒ・フロムは、「人間の遺伝子には、『持つ能力(to have)』と『ある能力(to be)』という、人間として欠くことのできない二つの能力が組み込まれている」と述べています。
ところが、私たちは、「持つ能力」ばかり重視し、「ある能力」を軽視してきました。お金を持つ、家を持つ、高い学歴を持つ・・・。「モノ」をたくさん持つことが幸せだという考えによって、間違った個人主義が蔓延し、人と人とのつながりが希薄になってきたのではないでしょうか。
「持つ」ということは、所有することであり、ある意味では支配することです。「友達を持つ」という表現がありますが、これは、友達を自分の都合のよい存在と考える姿勢であり、大変危険なことだと思います。
友情とは、自分本位のものであっては長続きしません。共に喜び合い、助け合い、ただ共にあることで幸せと感じるものです。したがって、私は「友は持とうとするな、共にあれ。」と教えてきました。
しかし、学生時代には、一人でもいい、ライバルを持つべきだと思います。特に勉強に関しては、ライバルがいることでモチベーションがあがり、勉強がはかどります。
ライバルといっても決して敵ではなく、同じような目標に向かっている仲間であるという気持ちさえ持っていれば、お互いに良い関係を築いていけると思います。
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